【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものだったと氣づきます。

共有されていくもの(レッスン215)

誰かが癒されたとき、私も癒される。

 

誰かがゆるされたとき、私もゆるされる。

 

誰かが救われたとき、私も救われる。

 

私が癒されたとき、誰かも癒される。

 

私がゆるされたとき、誰かもゆるされる。

 

私が救われたとき、誰かも救われる。

 

・・・

 

誰かが私をゆるさないとき、私は私と、その人をゆるす。

 

なぜなら、ゆるさない、と言う感覚は、幻想で、不自然で、不可能なことだったから。

 

私が誰かをゆるさなかったとき、私は私に幽閉され、不自由さでがんじがらめだった。

 

ゆるさなさが、ずっとそこにあるのは、「個人」が存在している、「個人」を守らなければ、と言う思い違いがあるため。

 

主張を握りしめていないと「個人」は消えてしまう。

 

なんであれ、何かの主張を握りしめている間は、それを守り続けなければいけなくて、緊張と不自由さに苛まれる。

 

もうこんな狭いところにいたくないって思った。

 

緊張と不自由さから解かれたいって真に願うとき、主張から解かれ、「個人」から解かれる。

 

「個人」から解かれることが、こんなにも安心をもたらし、軽さと喜びをもたらすなんて!

 

ひとたび、この解放を知れば、「個人」を握りしめている緊張と不自然さ、不自由さはもう必要ない、とわかる。

 

そして、

 

本当は、

 

ゆるさないも、ゆるすも、ゆるされたも、本当は存在していなかった。

 

それは、夢だった。

 

あるのは、平安。

 

あるのは、静寂。

 

・・・

ワークブック

 

レッスン215

 

復習

 

1.(195) 愛は私が感謝の内に歩む道である。

 

・・・・・

 

兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。

また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。

愛は比較しない。

そして、感謝は、愛とつながっているときのみ真摯なものでありえる。

(195.4:1-3)

 

私たちが比較をやめるとき、憎悪は忘れられるからである。

そうすれば、平安への妨げとして、これ以上何が残っているだろう。

(195.8:2.3)