子供の頃、父母が建てた新しい家を、複雑で理不尽な諸事情で、父の弟家族に譲らなければならなくなった。
そして私たち家族は、暴れる祖父のいる古い家に住むことになった。
学校から帰るとき、毎日、かって住んでいた新しい家を横目に、それよりもずっと遠くになった古い家に帰っていく。
家には不機嫌な母がいたし、いつ暴れるかわからない祖父がいた。
あのころの惨めで混乱していた感覚。
まさか、この感覚が、自分の自作自演だとは到底思えなかった。
この感覚が、「分離」を推し進めるために作られたものだったなんて。
だけど、この感覚を作っている「思考と感情」は、分離の信念の戯れ。
この戯れに長いこと居座ると、それは執着になる。
というか、愛着になる。
苦しみが愛着になっている。
・・・
それをやめて、
自分の「思考」をいっさい持ち出さず、
「わからなさ」の中に。
「わからなさ」の現れに、ただ直面する。
「わからなさ」を甘受する。
・・・
この世界に意味をもたないことで、自由になる。
自由はどこまでも優しい。
何もつかまない。
何も裁かない。
全部が「愛」だと知っている。
「わからなさ」に抱かれる。
・・・・・
ワークブック
レッスン226
私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。
もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。
これを可能にするのは死ではなく、世界の目的について心を変えることである。
もし私が、今見ている通りに、世界を価値あるものと信じるなら、世界は私にとって価値あるものであり続ける。
しかし、もし世界を見ながら、その中に価値を見ず、自分のものにしておきたいものや、ゴールとして追求したいものを何一つ見なければ、世界が私から去っていく。
それは、私が真理に入れ替わる幻想を求めなかったからである。
父よ、私の家は、私が喜んで帰ってくるのを待っています。
あなたの腕は開かれており、あなたの御声が聞こえます。
天国がこのようにたやすく私のものになるというのに、虚しい願望や打ち砕かれた夢しかない場所に、どうして長居をする必要があるでしょう。
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