【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものが私たちでした。

ついに私は心安らかな自分を見出す(レッスン251)

握りしめている「自分」を解き放ち、

 

どんどん落ちてゆくと、

 

得も言われぬ安堵があった。

 

・・・

ワークブック

レッスン251

 

私は真理だけを必要としている。

 

私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。

今度は、ただ一つものもを求める。

その一つの中に、私に必要なすべてがあり、それだけが私に必要だったからである。

以前に求めたものは、必要のないものだった。

望んでいるものですらなかった。

自分の唯一の必要を、私は認識していなかった。

しかし今、自分が真理だけを必要としていることがわかる。

その中ですべての必要が満たされ、一切の渇望が終わり、あらゆる希望がついに叶い、夢は消え去る。

今、私は自分に必要なすべてをもっている。

今、ほしいものすべてをもっている。

そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。

 

父よ、私たちはその平安に感謝します。

私たちが自分に拒んだものを、あなたは取り戻してくださいました。

それだけが、私たちが真に望むものです。

(1・2)

 

・・・・・

4.罪とは何か

 

罪とは狂気である。

それは心を狂わせる手段であり、それにより、心は幻想が真理と入れ替わることを求める。

狂った心は、真理があるべきところや実際にあるところに、幻想を見る。

罪は肉体に目を与えた。

罪なき存在には、見たいと思う対象などないからである。

罪なき存在が情景や音や感触に何の用があるだろう。

聞きたいことや、握りしめたいものが何かあるだろうか。

そもそも五感で感じたいと思う対象などあるだろうか。

「五感」で感じるとは、「知る」ということではない。

そして真理を満たせるのは知識だけであり、ほかにはありえない。

 

肉体とは、心が自らを欺くために作り出した道具である。

肉体の目的は、存続のために努力することである。

しかし、努力の目標は変わりえる。

そうなったとき、肉体は別の努力目標に仕えるものとなる。

今や肉体が探し求めるものは、心が自己欺瞞というゴールのかわりに受け入れた新たな目的によって選択される。

虚偽だけでなく真理も、肉体の目的となりえる。

真理が目的となれば、五官は真実なるものの証人たちを探し求める。

 

罪はすべての幻想の住処であり、幻想とは、不信実な考えから生じる想像の産物にすぎない。

それらは、実在性のないものが実在するという「証拠」である。

神の子が邪悪であり、時間を超越したものに終わりがあり、永遠の生命が死すべきものだと、罪は「証明」する。

そうして神は愛し子を失い、神を完成させるものは腐敗だけとなり、死が永久に神の意志を打破し、憎悪が愛を殺害し、もはや平安は存在しない、ということになる。

 

狂人の夢はぞっとするほど恐ろしく、罪は身の毛がよだつほど怖いものに見える。

だが、罪が知覚するものは、幼稚なゲームにすぎない。

神の子は戯れに、邪悪さと罪悪感の餌食である肉体となって、

死ねば終わるはかない生命と化した、というふりをすることはできる。

しかしその間も父の光は彼を照らし、彼がどんなに偽装しても微塵も変わらぬ永遠の愛をもって、彼を愛している。

 

神の子よ、あなたはいつまで罪のゲームを続けるつもりなのだろう。

こうした刃先の鋭い玩具を片づけようではないか。

あなたはいつになったら故郷に帰る用意ができるのだろう。

それは今日だろうか。

罪は存在しない。

被造物は不変である。

それでもまだ、天国への帰還を咳に延ばしたいのだろうか。

ああ、聖なる神の子よ、

いったいいつまで、あなたはそれを続けたいのだろう。

 

(全文)