掴まないといいながら、掴もうとしていた。
もう瞬時に訂正されることになる。
愛がまがいものをはじく。
自我はがっがりしてるけど、冷静さを取り戻すと、「そりゃそーだ」とさっぱりした。
そしてやはり掴まないことの自然さに戻る。
掴まないことで、そこには優しさだけがあることがわかる。
やはり、意味の中に入らずに、その根底の優しさを堪能し、讃えるだけなのだ。
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ワークブック
レッスン265
被造物の優しさだけを、私は見る。
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私は本当に世界を誤解してきた。
なぜなら、私は自分の罪を世界に押しつけた上で、その罪が私を見つめ返すのを見ていたからである。
それはまったく獰猛に見えた。
私は恐れていたものが自分の心の中だけにあると思わず、世界の中にあると思っていたが、何という思い違いをしていたことだろう。
今日、私は、被造物が放つ優しい天上の光に包まれた世界を見る。
その中に恐れはない。
世界の上に輝く天国の光が、私の罪のように見えるもので陰らないようにしょう。
その世界に映し出されているものは、神の心の中に在る。
私が見ている形象は私の想念の反映である。
そして私の心は神と一つである。
だから、私には被造物の優しさが知覚できる。
静けさの中で、私は、あなたの想念と私自身の想念を反映する世界を見たいと願っています。
どちらも同じであることを思い出させてください。
そうすれば、私は被造物の優しさを見ることでしょう。
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勝手に優しさに定義をあてはめてて、
そうじゃないものはすべて攻撃だと見なしたりして、
罪悪の中に居座り続けていた。
罪悪を選び続けていた。
優しさだけがあるのを見ようとしなかった。
自我の出番に重きをおくことで、光を認めるのを避けてきたんだった。
光から逃げてきたんだった。
光の中なのに。
降参します。