周りに怒ってる人がいると居心地が悪い。
だから、その怒ってる人に対して怒ってたし、それをどうにかしようとしていたし、心の中で裁いていた。
これを逆転させると、私の中に怒りがあり、その部分がスクリーンに映し出されていたことになる。
何度も何度もこの辺りのことを学んでいたつもりだった。
だけど、真から受け入れてはいなかった。
私は、[「もう、自分は怒ってない!」と思い込んでいた。
(思い込もうとしていたんだなぁ)
私は、幼い頃から周りの怒りに翻弄されてきて、怒りに苦しんできた。
だから、そんな怒りはこれまでの学びのプロセスで早々に手放してると思い込んでいた。
そして、そんな苦しみのもとになる怒りを、いつまでも持ち続けている人を、結局は怒っていた。
これまでも、幾度も癒しが起きて、家族間では平和になってきた。
それでも、やはり、度々「怒り」にまつわる出来事に出くわす。
もう一度、ちゃんと立ち止まる。
全てが「訂正」「癒し」「ゆるし」の機会。
・・・
「外」に問題があると見ていると、堂々巡り。
このことに例外はない。
やはり、私が「怒り」に意味を持たせ、「怒り」に力をみて、「怒り」を問題として見てるだけなのだ。
スクリーンに、「怒り」に意味や力がある、という信念の映像を映し出してるのを、その「信念」通りに目撃しているだけなのだ。
・・・
問題としてみたいのは、怒りに意味や力があると見たいのは、愛に溶けるのが怖いから。
怒ることや、起こることに意味や力を見ることで、愛を排除していた。
ただそこには愛しかないことを目撃するのを拒否していただけだった。
・・・
もがいても無駄な抵抗、どうしたって愛の中。
目を覚そう。
愛に溶けよう。
・・・
ワークブック
レッスン298
父よ、私はあなたを愛し、あなたの子も愛します。
私の感謝により、私は恐れをもたずに自分の愛を受け入れられるようになる。
そうして、私はついに自らの実相へと戻される。
私の神聖な視覚に侵入したものを、赦しがすべて取り去ってくれる。
そして私は、無意味な旅や狂った天職や人為的な価値観への終わりへと近づく。
それらのかわりに、神が私のものとするものを受け入れ、そうすることにおいてのみ、自分が救われ、恐れを通り抜けて私の愛する存在に出会えると確信している。
父よ、今日、私はみもとに参ります。
あなたの道以外の道を進みたいとは思わないからです。
あなたは私の傍らにおられます。
あなたの道は確かです。
確実な聖域という神聖な贈り物に感謝します。
そして、父なる神と神聖な神の子への私の愛を隠してしまうあらゆるものからの脱出という贈り物にも、感謝します。
(全文)