反応しているということはそこに信念があるし、自分の世界を押し付けていることになる。
この世界に自分と兄弟をはりつけて、判断をくり返し、世界を作り続けている。
私が作った世界では、人と人は離れているので、いろんな問題を見る。
今、私の中にある不満の感覚。
ずるいと思っている。
不平等だと思っている。
疎外されていると思っている。
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物質という土俵では思考、感情、感覚がある。
これを持っていたくない。
だけど、「持っていたくない」という反応自体が、幻想をリアルにしている。
自我は、自我のやり方で見ないふりしたり、すり替えたりする。
聖霊やコースまで、隠れ蓑に使って、「これは幻だから」と言い聞かせたりする。
そうではなく、正面から見て、そこを通過する。
ズッポリと入ってゆく。
恐れに向かっていく。
なぜなら、そこには何もないから。
そして愛を見る。
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ワークブック
レッスン304
私の世界が、キリストの視界を曇らせませんように。
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もし私が自分の神聖な視界に自分の世界を押しつけるなら、それを曇らせることはできる。
また、私がキリストの心眼を使わなければ、私は彼が見る神聖な光景を見ることはできない。
知覚は鏡であって、事実ではない。
私が見るものは、私の心の状態が映し出されたものである。
私はキリストの目を通して世界を見ることにより、世界を祝福したい。
そして、自分の一切の罪が赦させたという確かなしるしを見るつもりだ。
あなたは私を罪から光へ、罪から聖性へと導いてくださいます。
私が赦すことができますように。
それによって、世界のために救済を受け取ることができますように。
父よ、それは、私が神聖なあなたの子に与えるようにと、あなたが私にくださった贈り物です。
それによって彼はあなたについての記憶と、あなたに創造されたままのあなたの子についての記憶を、再び見つけることができます。
(全文)