もともとあった内側の「親密」な感覚。
自分の内側の静かなぬくもり。
それが延長されるままを邪魔しないでいたい。
お気楽だったり、取り繕うのが面倒だったり、単純だったり。
ただ愛おしかったり、楽しかったり、嬉しかったり。
そんなもともとあった無邪気さをそのまんまにしておく。
疑いの視覚を放棄する。
それが湧き上がってきたら、ただそこらあたりに置いておき、聖霊に優しく愛でられ消えていくままに。
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レッスン351
罪のない兄弟は平安への導き手である。
罪深い兄弟は苦痛への導き手である。
私は自分が見たいと選んだほうを見ることになる。
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神聖なあなたの子でなくて誰が私の兄弟でしょうか。
そしてもし私が兄弟を罪深き者と見るなら、私は自分自身を、神の子ではなく罪人だと宣言していることになります。
それは、恐ろしい世界の中にあって友もいない孤独な罪人です。
しかしこの知覚は私が下す選択であり、放棄できるものです。
私は兄弟を罪なき者として、神聖なあなたの子として見ることもできます。
そしてこの選択をすれば、私には自分の無罪性が見えます。
私の傍らには永遠の慰め手であり友である聖霊が見え、安全で明確な私の道が見えます。
ですから、父よ、御声を通して私のために選んでください。
聖霊だけが、御名のもとに正しく審判するからです。
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