神の子としての自覚というのは、「愛」に安らいでいるということと、それは、この世界の「すべて」がそうであるという気づきの中にいること。
そして、そのことを認めるのに、何の努力も必要なかったんだなあ、と認めること。
「個人」「我流」の頑張りを、ふんわりと手放す。
生きている目的がなんだったのかをもう一度立ち止まって見定める。
「目的」となるものがぐらぐらした不安定なものであれば、いつまでたっても安らかな気持ちにはなれない。
なので、不安定なときは目的がずれていると思い出す。
「目的」が確かなものであれば、ただただ安心するだけになる。
「確かなもの」に対しては、何もする必要がない。
ただそれを見れば、無条件で愛でるだけになる。
何もする必要のない「愛」そのものの私たちすべてに対して、「yes!」と祝福することを止めることなどできなくなる。
それがつながっている、ひとつらなり、キリストと共にある、ということ。
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ワークブック
レッスン354
キリストと私はともに立ち、平安のうちに、目的を確信している。
キリストが私の中にいるのと同じように、キリストの中には彼の創造主がいる。
キリストとの一体性が、私をあなたの子として確立します。
それは、時間の及ばぬところで、あなたの法則以外のすべての法則からまったく自由なあなたの子です。
私には、私の内なるキリスト以外の自己はありません。
私には、キリスト自身のものでない目的はありません。
キリストは彼の父と同じです。
ですから、私はキリストと一体であり、あなたとも一体であるはずです。
あなたに創造されたままのあなたの子以外の誰が、キリストだというのでしょう。
そして私は、私の内なるキリスト以外の何だというのでしょう。