深い深い夢だった。
罪のなすりつけ合いの夢。
そして覚める気がなかった。
夢だと気づいてからも、夢を見ようとし続けた。
だけど夢は夢だった。
霞の中でむきになればなるほど、虚しさしか感じられないと身に染みた。
強く強くつぶっていた目をゆっくりあける。
あまりにもまぶしくて、見えないほどだ。
だけど、光と目があった瞬間、包まれた。
愛そのものに溶けた。
・・・
ワークブック
レッスン363
聖霊よ、この聖なる瞬間をあなたに捧げます。
あなたが主導してください。
あなたの指示は私に平安をもたらすと確信しつつ、私はあなたの後についていきます。
これからの人生も聖霊にゆだねる。
私たちは二度と再び罪を信じることへと後戻りしたくはないからである。
罪を信じていたからこそ、世界は醜く不安な場所に見えていた。
攻撃的で破壊的な場所、すべてにおいて危険で、信頼の希望も苦痛を逃れる手立てもなく、あてにならない場所のごとく見えていた。
(最終課題ー練習の前に 1:4-5)
時間の夢の中では、その終わりはずっと先のことであるように思える。
しかし、真理においては、それはすでにここにあり、進路を示す慈悲深い導きとなって私たちを助けている。
真理が指し示す道を、私たちはともに進んでいこう。
そして道を探していながら見出していない多くの兄弟たちを先導する者となろう。
(最終課題ー練習の前に 2:3-6)
私たちは、父がご自身の神聖な子に約束した贈り物を手にすることなくこの一年を終わらせはしない。
今や私たちは赦されている。
私たちは神の怒りだと思っていたすべてから救われており、それらが夢だったということを見出した。
私たちは正気を回復しており、その正気の中で、怒りは狂気であり、攻撃は錯乱であり、復習は愚かな夢想にすぎなかったと理解している。
私たちが神の怒りから救われた理由は、自分たちが間違っていたことを学んだからである。
それだけのことである。
自分の子が真理を理解できなかったからといって、父親が怒り狂ったりするだろうか。
(最終課題ー練習の前に 5:1-7)
私たちは正直になって神のもとに行き、自分が理解していなかったと述べたうえで、神ご自身の与える教師の声を通して神のレッスンを学べるように、助けてほしいと願い出る。
神はわが子を痛めつけるだろうか。
それともわが子に駆け寄り、「これは私の子であり、私のものはすべて彼のものである」と言うだろうか。
神がこのように答えると確信していなさい。
これは、あなたに対する神のご自身の言葉だからである。
そして、誰もそれ以上のものを得ることはできない。
この言葉の中に、今もこれからも、時間を超えて永遠に存在する一切が含まれているからである。
(最終課題ー練習の前に 6:1-5)