「マニュアル」を読むと楽しい気分になる。
なんて力強い手引書なんだろう。
あんなに焦って生きてきた日々を、今、癒し、赦し、解放している。
この癒し、赦し、解放、はわかち合われる。
今心に焦りや苦しみがあるとしたら、見る必要のないところをただ見ているだけなのだ。
「神の子は無罪であり、その無垢性の中に救済がある」
ここだけがリアル。
ここには「時間」が存在しない。
瞬間、瞬間、「新しい」。
これを伝えるのは、言葉でもいいし、無言でもいい。
行動してもいいし、何もしなくてもいい。
近くにいてもいいし、遠くても関係ない。
時間から解放されたきらめきをわかち合い続けよう。
・・・
「一. 神の教師たちとは誰のことか」
神の教師となることを選択する者なら、誰でも神の教師である。
その資格はただ一つ、「なぜかどこかで、自分の利害を他者の利害から離れたものとは見なさいという、意図的な選択をした」ということだけである。
ひとたびその選択をしたなら、彼の道は確立され、彼の進路は定まる。
光が闇の中に差し込んだのである。
それは一条の光でしかないかもしれないが、それで充分である。
まだ神を信じていないとしても、彼は神と協定を結んだことになる。
彼は救済ともたらす者となった。
神の教師となったのである。
彼らは世界中からやってくる。
あらゆる宗教からも、無宗教からもやってくる。
彼らは応えた者たちである。
呼びかけは普遍的なものである。
それはあらゆる時、あらゆるところで続いている。
それを代弁して世界を救うようにと、教師たちに呼びかけている。
多くの者がそれを聞くが、応える者はわずかしかいない。
だが、それもみな時間の問題である。
誰もが最後には応えることになる。
しかし、その最後とは、はるかに遠い先のことになり得る。
だからこそ、教師の計画が定められたのである。
彼らの機能は時間を省くことである。
一人ひとりは一条の光として始めるが、呼びかけがその中心であるので、それは限定されることのない光である。
そして一人ひとりが、世界が判断するところの千年にも相当する時間を省くことになる。
呼びかけそのものにとっては、時間には何の意味もない。
神の教師の一人ひとりに一つのコースがある。
コースの形態は多種多様である。
使用される特定の教材も、同じく多様である。
しかし、コースの内容は決して変わることがない。
その中心的テーマは常に、「神の子は無罪であり、その無垢性の中に救済がある」ということである。
それは行動で教えることもできれば、想念で教えることもできる。
言葉で語ってもよく、無言でいてもよい。
どの言語を使っても、まったく言語を使わずとも、また、いかなる場所や時間においても、いかなる様式によってでも、教えることができる。
呼びかけを聞く前に、その教師が誰であったかは問題はない。
彼は応えたことにより救済者となった。
彼は誰か他の者を自分自身と見なしたのである。
それゆえに、彼自身の救済と世界の救済を見出した。
彼の再生において、世界は生まれ変わる。
本書は一つの特別なカリキュラムのためのマニュアルであり、普遍なるコースの特別な形態の一つを教える教師を対象としている。
他にも幾千もの形態があり、それらすべてが同じ結果をもたらす。
どれもみな、ただ時間を省くだけである。
しかし時間のみが気怠く流れ続けており、今この世界は非常に疲れている。
衰え、やつれ果て、希望を失っている。
結果について疑われたことは一度もない。
神の意志を変えることはできないからである。
しかし時間は、それに伴う変化と死という幻想の数々によって、この世界とその中のあらゆるものを疲弊されている。
だが時間には終わりがある。
それをもたらすことが、神の教師たちの任務である。
時間は彼らの手中にあるからである。
それが彼らの選択だったので、それが彼らに与えられている。
(全文)