【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 時間は幻想、愛は永遠(二. 生徒たちとは誰のことか)

愛は分かれていない。

愛は全体。

だから、自我は排除する必要はない。

ただ、自我は愛に解体されて溶けていく。

慌てて消す必要などない。

自我は表れて、揺るぎないおおらかな愛の中では簡単に溶ける。

 

その簡単さを受け入れたい。

この選択の中にいたい。

時間の呪縛を優しくそこに置こう。

 

・・・

神の教師の一人ひとりに特定の生徒たちが割り当てられており、教師が呼びかけに応えたなら生徒たちはただちに彼を探し始める。

その生徒たちが彼のために選ばれた理由は、彼が教えることになる普遍なるカリキュラムの形態が、理解のレベルという観点から彼らに最適だからである。

教師が訪れることは確実なので、生徒たちは彼をずっと待っていた。

これもまた、単なる時間の問題である。

ひとたび彼が自らの役割と果たすことを選んだなら、生徒たちにも自らの役割を果たす準備が整う。

時間は彼の選択を待っているのであり、彼が助けることになる者たちを待っているのではない。

彼に学ぶ準備ができたときに、教える機会が彼のために用意される。

 

救済のための「教えて学ぶ計画」を理解するには、このコースが説く時間の概念を把握することが必要である。

贖罪は幻想を訂正するのであって、真理を訂正するのではない。

したがって、それはもとより一度も存在したことのないものを訂正するのである。

そればかりか、この訂正の計画は定められたと同時に成就されている。

神の意志は全面的に時間から隔絶しているからである。

神からのものである実相のすべてについても、同様である。

分離の想念が神の子の心に入り込んだまさにその瞬間に、神の答えが与えられた。

時間の中では、これははるか悠久の昔に起こったことである。

実相においては、それは全く起こっていない。

 

時間の世界は幻想の世界である。

遠い昔に起こったことが、今、起こっているかに思える。

ずっと以前に選択されたことが、まだこれから選べる選択であるかに見える。

すでに学ばれ、理解され、とうの昔に過ぎ去ったものごとが、新しい考えや新鮮なアイデアや異なったアプローチと見なされる。

あなたの意志は自由であるから、あなたはすでに起こったことを、いつでも自分で選ぶときに受け入れることができる。

そしてそのときにのみ、あなたはそれが常にそこに存在していたと悟る。

このコースが強調しているように、あなたにはカリキュラムを選択する自由はなく、どのような形態で自分がそれを学ぶことになるかを選択する自由さえもない。

しかしあなたには、いつそれを学びたいかを決める自由はある。

そしてあなたがそれを受け入れるとき、それはすでに学ばれている。

 

すなわち、時間は実際に、往古の瞬間に戻っていくのである。

それは、あまりに遠い昔のことであるため、まったく記憶が及ばず、思い出せる可能性すらない瞬間である。

しかしその瞬間は、何度も何度も、幾度となく繰り返して追体験されるために、今であるかに見える。

そのようにして、生徒と教師が、あたかも以前には出会ったことがないかのようにお互いを見出し、現在において合流するように見える。

生徒は、ふさわしい時間にふさわしい場所にやってくる。

これは必然である。

なぜなら、彼はあの往古の一瞬において、すでに正しい選択をしており、それを今、追体験しているだけだからである。

教師もまた同じく、はるかなる過去の中で、必然の選択をした。

あらゆるものにおいて、神の意志の働きが表れるには時間がかかるように見えるが、それはそのように見えるだけである。

いったい何が、永遠の力を遅らせることなどできるだろう。

 

生徒と教師が合流するとき、「教えて学ぶ状況」が始まる。

というのも、実際には教えることを行うのはその教師ではないからである。

学びの目的のためにお互いにつながり合うどの二人の者に対してでも、神の教師が語りかける。

その関わりはその目的のゆえに神聖であり、神はどの神聖な関係にも聖霊を送ると約束してる。

そのような「教えて学ぶ状況」においては、どちらの者も与えることと受け取ることは同じだと学ぶ。

互いの役割の間や、互いの心や肉体や必要や利害の間に彼らが引いた境界線も、さらには互いを分け隔てていると彼らが思っていた相違のすべても、色あせ、薄らいで、消えてしまう。

同じコースを学ぼうとする者たちは、一なる関心と一なるゴールを共有する。

そのようにして、学ぶ者であった彼自身が神の教師となる。

なぜなら、彼も、自分に教師を与えることになったあの一つの決断を下したからである。

彼は他者にうちに、彼自身の利害と同じ利害と見たのである。