これまでの人生を「自我」的にながめると、とてもじゃないけど、がっかりする。
あれもダメだった、これも失敗した、あれは選択ミスだった、これは運が悪かった・・・・・。
ジャッジして、覆って、隠したくなるし、挽回したくなる。
でも、正気を取り戻し、「全体」「愛」という真の本質を思い出すために”これまでの人生”があったのだ、と気づくと、これまでのすべてが納得いくし、もうなんの不満も問題も、そしてトラウマや傷だと思っていた思い出の解釈が、優しく消えていく。
すべてが、本当の私へと戻るための招待状だった。
そして、今、これまでの「私の人生」と同じく、「この世界」を見渡すと、忌むべきものは何もない。
過去と同様に、未来も祝福に満ちている。
嘆き悲しみの世界だと見ていたけど、実際は、信頼された、至福への道を教えてくれるのが世界だった。
解釈からの解放にて、ダイレクトに美しさだけに触れる。
すべてが祝福されている。
・・・
神の教師たちの表面的な特性は一様ではない。
肉眼には、彼らが似ているようには見えず、彼らの来歴も限りなく多様である。
この世界での経験も千差万別、表向きの「個性」もそれぞれまったく異なっている。
また、神の教師として確立することになるような、より深い特徴を身につけてはいない。
神は彼らに特別な贈り物を授ける。
彼らには神により贖罪の計画における特別な役割があるからである。
彼らの特別性はもちろん一時的なものでしかない。
すなわち、時間の外へ導くための手段として、時間の中に設定されているものである。
こうした特別な贈り物は、この「教えて学ぶ状況」が目指している神聖な関係の中で生まれ、自らの学びにおいて進歩を遂げた神の教師たち全員に特有のものとなる。
この点において、彼らはみな一様である。
神の子らの間の相違はすべて一時的なものである。
それでも、時間の中では、進歩した神の教師たちは次のような特徴を備えている。
Ⅰ. 信頼
これが、神の教師としての機能を全うするための彼らの能力の土台を成すものである。
知覚は学びから生じる結果である。
実は、知覚が、すなわち学びである。
原因と結果は決して分離してはいないからである。
神の教師たちは世界を信頼している。
なぜなら、彼らは、世界はそれ自体が作り上げた法則によって支配されてはいないと学んだからである。
それは彼らの内にありながらも、彼らのものではない力によって支配されている。
すべてのものを安全に保持しているのはこの力である。
神の教師たちが赦された世界を見るのは、この力を通してである。
ひとたびこの力が体験されたなら、二度と再び自分自身のささいな力を信頼することはできなくなる。
鷲のように強力な力が自分に与えられているというときに、いったい誰が、雀の小さな翼で飛び立とうとするだろう。
そして神の贈り物が目の前に置かれているときに、いったい誰が、自我のみすぼらしい捧げ物を信頼しょうとするだろう。
彼らにこうしら転換を促すものとは何だろうか。