私は個ではなかった。
そうだった。
昨日は、個人の世界に閉じこもっていた。
神の子という「一貫性」。
全人類のための選択。
個人を脇によければよけるほど、「正気」の目で見渡すことができる。
何が大切で、何が大切ではないか。
形は幻だから、大切もなにも、そもそも何もない。
私たちは心であり、「空」そのもの。
何の矛盾も問題も生じようがない。
一点の曇りもない心に戻ろう。
それ以外の選択はないのだから。
・・・
神の教師たちのその他すべての特徴が、信頼に基づいている。
ひとたび信頼が達成されたなら、他の特性も必ずもたらされる。
信頼する者たちだけが正直でいることができる。
なぜなら、彼らだけにその価値がわかるからである。
正直さとは、あなたが話すことだけあてはまるのではない。
正直さという言葉は実際には一貫性を意味する。
自ら語ることが何一つ自分の考えや行動と矛盾せず、どの考えも他の考えと対立せず、すべての行為が自分の言葉を裏切ることなく、どの言葉も他の言葉と符合している。
このような者たちが、真に正直な者たちである。
いかなるレベルにおいても、彼らは自分自身と葛藤してはいない。
したがって、彼らが他の誰かや何かと葛藤することは不可能なことである。
進歩した神の教師たちが経験する心の平安は、彼らの完璧な正直さによるところが大きい。
欺こうという願望のみが争いを促す。
自分自身とひとつである者は葛藤など思い描くことさえできない。
葛藤は自己欺瞞の必然的な結果であり、自己欺瞞とは不正直さである。
神の教師にはいかなる難問もない。
難問とは疑念を示唆するものであり、神の教師たちは信頼を確かな拠りどころとしているので、疑念は不可能となっている。
だから彼らは成功するのみである。
このことにおいても、すべてのことにおいてそうであるように、彼らは正直である。
彼らが成功するのみだという理由は、彼らが決して自らの意志をひとりで行うのではないからである。
彼らは全人類のために選択する。
全世界とその中にあるすべてのもののため、外観を超えた、変わらぬものにして変わり得ぬもののため、そして神の子とその創造主のために、選択する。
彼らが成功しないなどということがあり得るだろうか。
自分自身について確信しているのと同じく自分の選択についても確信している彼らは、完璧な正直さの中で選択している。