何かに「恐れ」を感じたり、想像するときは、勘違いしているということで、そしてだからといって、自分でどうにかせずに、そのまま感覚を感じる。
そのうち、それは通り過ぎて、柔和さが表れる。
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危害というのものは、神の教師たちとって不可能なものである。
彼らは危害を及ぼすことも、危害を被ることもあり得ない。
危害とは裁きがもたらすものである。
それは不正直な想念の後に続いて起こる不正直な行為である。
それは兄弟に対する有罪判決であり、したがって自分自身に対する有罪判決である。
それは平安の終わりであり、学びの否定である。
それは、神のカリキュラムが不在であって、狂気がそれと入れ替わっていることを実証している。
すべての神の教師が学ぶべきこと、しかも自らの訓練期間のかなり早い時期に学ぶべきことは、危害性は自分の機能についての自覚を完全に消し去るということである。
それは彼を混乱させ、怯えさせ、怒らせ、疑い深くさせる。
そして聖霊のレッスンを学習不可能にしてしまう。
また、危害は実際に何も達成できないと悟っている者たちでなければ、決して神から聞くことはできない。
危害から得られるものは何もない。
したがって、神の教師たちとは完全に柔和な者たちである。
彼らには柔和さという強さが必要である。
なぜなら完全な柔和さの中でこそ、救済の機能が容易になるからである。
危害を及ぼそうとする者たちにとっては、柔和さは不可能なものである。
危害というものに何の意味も認めない者にとっては、柔和さは単に自然なものであるにすぎない。
正気の者にとって、これ以上のどのような選択に意義があるだろう。
天国への道を知覚しているときに、誰が地獄を選ぶだろう。
そしていったい誰が、頼もしく一切を包み込む無限の強さである柔和さを選ぶ代わりに、危害から生じずにはいない弱さのほうを選ぼうとするだろう。
神の教師たちの力は彼らの柔和さの中にある。
なぜなら、彼らは、自分たちの邪悪な想念が生じたのは神の子からでも彼の創造主からでもないと理解したからである。
こうして彼らは自分の想念を自分たちの源である神に合一させた。
それゆえに、常に神ご自身のものであった彼らの意志には、それ自体として存在する自由がある。