強いとか弱いとか、優秀とか愚かとか、何にも生じていない。
その「創造」そのもの。
自分を作ろうと必死だったのは、この世界に限定した価値を信じていて、その価値に自分を閉じ込めようとしてきたから。
愚かであること、みじめであることがとにかく嫌で、必死で防衛してきたけど、愚かさとか、みじめさという価値判断そのものが、「自我」の捏造だった。
愚かさもみじめさも、正面から見つめられたら、その出どころは、愛でしかなかった。
愛に触れると、愚かさ、みじめさといった特別性は消える。
もちろん、その対極の、優秀さや尊大さも消える。
それらは全部間違っていた。
それをただ見過ごしたらいいだけだった。
本当に簡素。
本当にシンプル。
そして、得も言われぬ安堵と喜びそのものだけがある。
・・・
Ⅵ. 防衛しない態度
神の教師たちは、どのようにすれば簡素でいられるかを学んできた。
彼らは真理に対抗して防衛する必要があるような夢は一つももっていない。
自分で自分を作り出そうとはしない。
彼らの喜びは、自分が誰によって創造されたかという理解から生じている。
そして、神が創造したものに防衛の必要などあるだろうか。
誰でも、防衛とは狂った幻想の愚かな番人にすぎないと充分に理解するまでは、進歩した神の教師にはなれない。
夢が怪奇になればなるほど、その防衛も激しく強力になるように見える。
しかし神の教師がついにそれらの夢を見過ごすことに合意したとき、そこには何もなかったことを見出す。
最初はゆっくりと、自分自身を欺瞞から解放していく。
しかし信頼が増すにつれて、彼はもっと早く学ぶようになる。
防衛をやめたときに訪れるのは危険ではない。
それは安全である。
平安である。
喜びである。
そして神である。