責め、裁かれてなんかいない。
その夢を握りしめていただけ。
握りしめている力の側にぎゅっと入り込んでいただけ。
その握りしめられている手ではなく、そのスペースを提供しているスペースそのものが私たち。
「忍耐」とは、ぎゅっとしている力側がほどけていくさまを見つめる優しい目であり、まったく我慢などしていない。
する必要がない。
ここで述べられている「忍耐」は、心地よいお昼寝のような、くつろぎの様子なのだなぁ。
粛々と祝祝と。
・・・
Ⅷ. 忍耐
結果について確信を抱いている者は待つだけの余裕があり、しかも、心配せずに待つことができる。
神の教師にとって、忍耐は自然なものである。
彼が見ているのは確かな結末だけであり、それがいつになるかをまだ彼は知らないかもしれないが、疑ってはいない。
その時期は、その答えと同じく、適切なものとなる。
そしてこのことは、現在および未来に起こる一切のものごとについて真実である。
過去もまた、いかなる間違いも保持してはいない。
世界の益とならなかった出来事も、その出来事を被ったかに見えた者も、過去に含まれてはいない。
このことは、その時点では理解されていなかったかもしれない。
たとえそうだとしても、神の教師は、もし自分の過去の決断が誰かに苦痛をもたらしているなら、それらすべてについて考え直すことを厭わない。
信頼を抱く者たちにとって、忍耐は自然なことである。
時間の中で起こるすべてのものごとの究極の解釈を確信しているため、すでに目にしている結果も、これから起こるものも、何一つ彼らに恐れを引き起こすことはあり得ない。