世界は何もしない。
私も世界に何もしない。
両方は同じものである。
おー---!
同じものだ。
本当に。
優しく微笑めば優しさにあふれる。
苦しめば苦しみがあふれる。
見たいように見ている。
世界が影響したり、世界に影響してると思い込んでいる・。
疲労困憊を生み出し続けていた。
被害者と加害者ごっこだった。
虚しかった。
物質の世界がもたらす一喜一憂のあとは虚しさがあった。
それに触れないように誤魔化し続けていた。
幻は虚しさを作り続ける。
虚しさという刺激を。
その虚しさの中へとどっぷり入る。
そして、それが通り過ぎるままそのままに。
刺激そのものを放っておく。
静けさへと。
すべては「全体」。
・・・
病気の無価値性が認識されるにつれ、その認識の度合いに厳密に比例して、必ず癒しが起こることになる。
「この中には、私の益になるものは何もない」と言いさえすれば、癒される。
しかしそのように言うためには、人はまずいくつかの事実を認識しなければならない。
第一に、決断は心に属し、肉体に属さないということは明白である。
もし病気が間違った問題解決のためのアプローチにすぎないとすれば、それは一つの決断である。
そしてそれが決断だとすれば、それを行うのは肉体ではなく心である。
これを認識することに対する抵抗は途方もなく大きい。
なぜなら、あなたが知覚している通りの世界の存在が、肉体が決断の主体であるということに依拠しているからである。
「本能」や「反射神経」などといった言葉は、心に由来しない動因を肉体に賦与しようとする試みを表象している。
実際には、そうした言葉は単に問題を述べたり説明したりしているにすぎない。
問題に答えてはいない。
病気というものを、「心が、肉体を用いて達成しようとする目的に即して下す決断」として受け入れることが、癒しの基盤である。
そしてこれは、あらゆる形の癒しについて言うことができる。
患者がその通りだと決断すれば、彼は回復する。
回復に逆らう決断をすれば、癒されることはない。
医者とは誰だろうか。
それは患者自身の心に他ならない。
結果は彼が決める通りのものである。
特別な薬剤が彼を助けるように見えるが、それらは彼自身の選択に形を与えるだけである。
彼は、自分の欲求に明確な形を付与するために、それらの薬剤を選択する。
薬剤がすることはそれだけであり、他には何もしない。
それらは、実際にはまったく必要のないものである。
患者はそうしたものの助けを借りずにただ起き上がり、「私にとってこれは何の役にも立たない」と言うことができる。
ただちに治らないような病気の形態は一つもない。
こうした知覚の変化のための、唯一の必要条件は何だろうか。
それは、「病気は心に由来するものであり、肉体にはまったく関係がない」という認識だけである。
この認識を得るための「代償」は何だろうか。
あなたが見ている世界全体が「代償」である。
なぜなら、二度と再び、世界が心を支配するものには見えなくなっていまうからである。
この認識によって、責任はそれがあるべきところに置かれる。
すなわち、世界ではなく、世界をありのままに見ていない彼自身に戻される。
彼は、自ら見ようと選択するものを見る。
それ以上でも以下でもない。
世界は彼に何もしない。
彼が自分で、世界が自分に何かをすると考えただけである。
また彼も、世界に対して何もしない。
なぜなら、世界とは何かについて、彼は誤解していたからである。
ここに、罪悪と病気の両方からの解放がある。
両者は同一のものだからである。
しかしこの解放を受け入れるには、肉体は取るに足らないものだという考えが受け入れられるものとなっていなければならない。
この考えによって、苦痛は永遠に消えてなくなる。
しかし、この考えによって、創造についての混乱もすべて去っていく。
これは必然の成り行きではないだろうか。
一つの事柄において原因と結果を真に正しい順序で配置するなら、学びは普遍化され、世界を変容させるだろう。
一つの真の想念の転移価値には、終わりも限界もない。
このレッスンの最終結果は、神の想起である。
そのとき、罪悪や病気、苦痛や災厄、そしてすべての苦しみに、何の意味があるだろう。
それらには何の目的もないので、ただ消えてしまう。
そしてそれらが引き起こしたかに見えた結果も、みな一緒に消え去る。
原因と結果はただ創造を反映するのみとなる。
歪曲も恐れもなく正しい視座から見られるとき、原因と結果が天国を再び確立する。