神に創造されたままだという確信のままでいるだけ。
もうこれがゆらぐことはない。
これまで、目を覆うような出来事として反応してきた数々が、霞だったとわかる。
喜びと祝福以外、湧き起らない。
誰一人として、この事実から漏れることはない。
すべてが喜びそのもの。
・・・
Ⅲ. 神の教師の機能
癒されるためには患者が自分の心を変えなければならないというのなら、神の教師は何をするのだろうか。
彼が患者の心を当人に代わって変えられるだろうか。
当然それはできない。
すでに自分の心を変えようとする意欲がある者に対しては、神の教師の機能は、ただ彼らと共に喜ぶことだけである。
彼らも彼と一緒に神の教師になったからである。
しかし、癒しとは何であるかを理解していない者たちのためには、神の教師にはもっと具体的な機能がある。
こうした患者たちは自分が病気を選んだことがわかっていない。
それどころか、病気の方が自分を選んだと信じている。
また、この点について、彼らの心は開かれていない。
肉体が彼らに何をすべきかを告げ、彼らはそれに従っている。
こうした考えがどれほど狂っているか、彼らには思いもよらない。
そうした考えの信憑性を疑うだけでも、彼らは癒されるだろう。
しかし彼らは何も疑ってはいない。
彼らにとって、分離はきわめて実在性のあるものである。
神の教師たちは彼らのところにきて、彼らが忘れてしまったもう一つの選択を表象するものとなる。
一人の神の教師がただそこに居ることが、それを思い出させる。
その教師の想念が、患者が真実として受け入れてきたものを、疑問視させてほしいと求める。
神の使者である神の教師たちは、救済の象徴である。
そして彼らはその患者に、神の子自身の真の名において神の子を赦すようにと求める。
神の教師たちは、もう一つの選択肢を象徴している。
神の教師たちは心に神の言葉を抱き、祝福のうちに訪れる。
病める者と癒すためではなく、神からすでに授けられている治療法を思い出させるためである。
彼らの両手が癒すのではない。
彼らの声が神の言葉を語るのでもない。
彼らはただ自分に与えられたものを与えるのみである。
彼らはそっと優しく、兄弟たちに死から背を向けるようにと呼びかける。
「神の子よ、生命があなたに何を差し出せるかを見なさい。この代わりにあなたは病気を選択したいのだろうか」と。
進歩した神の教師たちは、兄弟が信じている病気の形態を一度たりとも考慮したりはしない。
そうすることは、「すべての病気には同一の目的があるので、実際には何の違いもない」ということを忘れることである。
彼らは、神の子が苦しむことがあり得ると信じるほどに自分自身を欺こうとする兄弟の中に、神の声を探す。
そして兄弟に、彼は自分で自分を作り出したのではなく、今も神に創造されたままであるはずだと思い出させる。
彼らは幻想は何の結果ももたらさないと認識している。
彼らの心の中の真理が兄弟たちの心の中の真理へと達するので、幻想が強化されることはない。
こうして幻想が真理のもとに運ばれる。
真理が幻想のもとに運ばれるのではない。
このようにして幻想は、他者の意志によってではなく、一なる意志のそれ自体との融合によって、一掃されるのである。
そして、これが神の教師たちの機能である。
すなわち、自分の意志から分離した意志を見ず、自分の意志も神の意志から分離したものとは見ないということである。