ためらいなく、気づきを共有する。
それに任せるだけでいい。
どう受け取られたか気に病む必要は一切ない。
喜びを止める必要は全くない。
楽園にて。
・・・
六. 癒しは確実かどうか
癒しは常に確実である。
幻想が真理のもとへ運ばれるにまかせた上で、その幻想を引き続き保持するということは不可能である。
真理は、幻想に価値がないことを実証する。
神の教師は自らの誤りの訂正を患者の心の中に見たのであり、それをありのままに認識したのである。
彼は贖罪を自分自身に受け入れたので、それを患者のためにも受け入れている。
しかし、もしその患者が、一つの生き方として病気を使用し、癒しとは死に至る道だと信じているとしたら、どうだろう。
そのような場合には、突然の癒しは重度の憂鬱を引き起こすことがある。
あまりに深い喪失感をもたらすので、患者は自分自身を破壊しようとさえするかもしれない。
生きる意味を失って、死を願うかもしれない。
彼を保護するには、癒しは待たなければならない。
癒しは、それが脅威と見なされるときには、いつでも脇に退く。
歓迎された瞬間に、それはそこにある。
癒しが与えられた場で、癒しは受け取られる。
そして神の贈り物の前では、時間が何だというのだろう。
「テキスト」では、神の贈り物を与える者のためにも受け取る者のためにも等しく蔵の中に蓄えられている宝物について、何度も述べてきた。
そのうちの一つでも失われることはない。
それたは増えていくばかりだからである。
神の教師は、癒しを差し出したのにそれを受け取られていないように見えたとしても、落胆してはならない。
彼の差し出した贈り物がいつ受け入れられるべきかの判断は、彼に任されてはいない。
彼はそれが受け取られたと確信していればよい。
そして、それが呪いではなく祝福だと認識されたときには受け入れられるだろうと、信頼していればよい。
自分の贈り物がもたらす結果を評価することは、神の教師たちの機能ではない。
彼らの機能は、単に贈り物を与えることである。
ひとたび与えたなら、その結果も与えたことになる。
それは贈り物の一部だからである。
与えた後にどうなるかを気にかけているなら、誰も与えることはできない。
それは与えること自体に制限を課すことであり、与える者も受け取る者もどちらも贈り物を得ることができなくなる。
信頼は、与えることの本質的一部分である。
実は、これこそが共有を可能にする部分であり、与える者が失わず、ただ獲得するのみとなることを保証する部分である。
贈り物を与えておきながら、その後もそれにつきまとい、送り主が適切だと思う通りにそれが使われるかどうかを確かめようとする者などいるだろうか。
それは与えることではなく、幽閉することである。
贈り物は、それについてのあらゆる懸念を手放すことによってこそ、真に与えられる。
そして真に与えることを可能にするのは、信頼である。
癒しとは、患者の心の中の聖霊が彼のために求めている心の変化である。
そして彼に贈り物を与えるのは、与える者の心の中の聖霊である。
それが失われることなどあり得るだろうか。
それに効果がないということがあるだろうか。
それが無駄になったりするだろうか。
神の宝庫は決して空にはならない。
贈り物が一つでも欠けていたなら、宝庫は満たされていない。
しかしそこが満たされることは、神により保証されている。
それならば、自分の贈り物がどうなるかについて、神の教師にいかなる懸念があり得るだろう。
神から神へと与えられるこの神聖なる交換において、一切に満たないものを受け取る者などいるだろうか。