【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 七.癒しは繰り返し行われるべきか

「心配」し続けないと「愛」しているという証明にならない、という恐れがなかなか消えなかった。

 

なので、本来なら、「愛」にくつろぎ、ただ祝福の中にいればいいだけなのに、気がかりなことを捏造して、それに取り組もうとしてしまったりしようとする。

 

だけど、それに対しても抵抗が出てきていて、それこそ、またそのどっちつかずの葛藤に居座ろうとしていた。

 

だけど、それはただの「分離」の強力な信念でしかない。

 

「心配」は攻撃でしかない。

 

「心配」は個人という構造があり得るという卑小な信念でしかない。

 

もう、この葛藤の中に居座りたいとは思わない。

 

「心配」は必要ない。

 

この安らかで透明な至福はすべてに行き渡っている。

 

「賛美」しよう!

 

・・・

七.癒しは繰り返し行われるべきか

 

この質問の答えは、実のところ、自明である。

癒しを繰り返すことはできない。

患者が癒されているのなら、癒されるべき何が残っているというのだろう。

そして、すでに述べた通りに癒しが確実であるなら、繰り返せる何があるというのだろ

う。

癒しがもたらすものについて神の教師が心配し続けるということは、癒しを制限することである。

そうなると、癒される必要があるのは、神の教師自身の心ということになる。

そして彼が促進しなければならないのはこの癒しである。

今や彼が患者であり、自分自身をそのように見なさなければならない。

彼は間違いを犯したのだから、それについて自分の心を変えようとする意欲をもたなければならない。

真に与えることを可能にする信頼が彼に欠けていたので、彼はまだ自分の贈り物からの恩恵を受け取ってはいない。

 

神の教師が癒しの経路になろうとしたときにはいるでも、彼はそれに成功してきた。

このことを疑ってみたい誘惑にかられても、彼は以前と同じ努力を繰り返すべきではない。

それはすでに最大限のものであった。

なぜなら、聖霊はそれをそのように受け入れて、そのように使ったからである。

今や、神の教師が進むべき道は一つしかない。

自分の理性を使って、「失敗するはずのない存在に、すでに問題を預けてある」と、自分自身に言い聞かせなければならない。

そして、自分の不確かさは愛ではなく恐れであり、したがってそれは憎しみだということを認識しなければならない。

こうして彼の不確かさは維持できないものとなる。

それは、自分が愛を差し出した相手に憎しみを差し出していることになるからである。

これは不可能なことである。

愛を差し出したからには、愛しか受け取ることができない。

 

神の教師が信頼しなければならないのは、このことである。

これこそが、「奇跡を行う者にとっての唯一の責任は、ただ自分自身のために贖罪を受け入れることだけである」という言葉が真に意味していることである。

神の教師は、自分の受け取った贈り物を与えるからこそ、奇跡を行う者なのである。

だが、まず先に自分がそれらを受け入れなければならない。

それ以上のことをする必要はなく、またそれ以上のことはできない。

癒しを受け入れることにより、それを与えることができる。

もし彼がこのことを疑うなら、誰がその贈り物を与え、誰がそれを受け取ったのかを、彼に思い出させなければならない。

こうして彼の疑念は訂正される。

彼は神からの贈り物が取り下げられることがあり得ると思った。

それは間違いだったが、そのような間違いと共にとどまる必要はない。

したがって、神の教師にできることは、ただそれをありのままに認識し、自分のために訂正してもらうことだけである。

 

認識することが最も難しい誘惑の一つは、症状が継続しているように見えるという理由で癒しを疑いたくなることであり、それは信頼の欠如という形の誤謬である。

それゆえにそれは攻撃である。

普通はその正反対のように見える。

案じ続けることが攻撃だと言われたなら、はじめは確かに理不尽なことのように思えるはずである。

それはどこから見ても愛のように見える。

しかし信頼のない愛は不可能であり、疑念と信頼は共存できない。

そして憎しみは、いかなる形を纏っていようとも、愛とは正反対のものに違いない。

贈り物を疑わずにいなさい。

そうすれば、それがもたらすものを疑うことも不可能である。

この確信が、神の教師たちに奇跡を行う者となる力を与える。

なぜなら、彼らは神に信頼を置いたからである。

 

解決のために神の教師に与えられた何らかの問題の結果について疑いがあるとしたら、その真の根拠は、常に自己不信である。

そしてそれは必ず、幻想の自己に信頼を置いてしまっていることを示唆する。

そのような自己のみが疑いの対象となり得るからである。

この幻想は多くの形を取る。

そこには弱さと傷つやすさに対する恐れがあるかもしれない。

力不足の感覚に伴う失敗や恥を恐れる気持ちがあるかもしれない。

あるいは、偽りの謙遜から生じる後ろめたい決まり悪さかもしれない。

間違いの形は重要ではない。

重要なことは、ただ間違いを間違いと認識することだけである。

 

この間違いとは常に、患者を除外して自分だけについて案じるという懸念の何らかの形である。

これは、彼を自己の一部と認識することができていないということであり、したがって、アイデンティティーにおける混乱を表している。

あなたの本性についての葛藤が心に入り込み、あなたは自分自身について欺かれてしまった。

そしてあなたが自分自身について欺かれている理由は、あなたが自分を創造した源を否定したからである。

もしあなたが癒しだけを差し出しているのなら、疑うことはできない。

もしあなたが真に問題の解決を望むなら、疑うことはできない。

もし問題は何なのかについて確信があったなら、疑うことはできない。

疑念とは、葛藤する複数の願望によりもたらされるものである。

自分が何を望んでいるかをはっきりさせなさい。

そうすれば疑念は不可能となる。