「判断」を喜んで手放したい。
だって、こんなに楽なんだもん。
これ以上、どんな状態を望むというのだろう。
今、だけが真新しく差し出されている。
その新鮮さに触れ続けること以外、望む理由はどこにもない。
「わからなさ」のまんま。
被造物の喜びを讃えたい。
今、という事実の真新しさの只中だけがある。
・・・
幻想から成る世界を維持している他の仕組みと同様に、判断というものも、世界によって全面的に誤解されている。
それは実際に叡智と混同され、真理の代替とされている。
世界によるこの言葉の用い方によれば、ひとりの個人が「良い」判断と、「悪い」判断をすることができ、彼の教育は前者を強化し、後者を最小限にすることを目指している。
しかし、これらの分類が何を意味するかについては、かなりの混乱が見られる。
ある者にとっての「良い」判断が、別の者には「悪い」判断であることもある。
さらには、同じ者でさえ、同じ行動を「良い」判断として分類するときもあれば、「悪い」判断として分類するときもある。
また、こうした分類の内容を決めるための首尾一貫した基準といったものも、実際に教えることはできない。
いつでも生徒は、自称「教師」がそれらについて述べることに対して異議を唱えることがあり得る上に、その教師自身が、自分の信じていることについて一貫していないこともある。
こうした観点からは、「良い」判断という言葉には何の意味もない。
「悪い」判断という言葉も同様である。
自分は判断すべきではないというよりも、自分に判断などできないということに、神の教師は気づく必要がある。
判断を手放すにあたり、彼は単に、もとより自分がもっていなかったものを手放すにすぎない。
彼は幻想を手放すのである。
あるいはむしろ、手放すという幻想を抱くと言ったほうがよい。
実際には、彼は以前より正直になっただけのことである。
判断することは自分にとって常に不可能であったと認識し、もはやそれを試みようとはしない。
これは犠牲ではない。
それどころか、彼は自分によるのではなく自分を通して判断が為されることが可能になるという立場に、自分自身を置くことになる。
そして、この判断は「良く」もなければ「悪く」もない。
それは存在する唯一の判断であり、「神の子は無罪であり、罪は存在しない」というただ一つの審判である。
この世界の学習のゴールとは異なり、私たちのカリキュラムの目標は、普通の意味での判断というものは不可能だと認識することにある。
これは見解ではなく、事実である。
何についてであれ正しく判断するためには、人は、想像もつかないほど広範にわたる過去・現在・未来のものごとについて、充分に意識していなければならない。
それらのものごとに何らかの関わりがあるすべての人々や一切のものに対し、自分が下す判断がどのような影響を及ぼすことになるか、そのすべてをあらかじめ認識していなければならない。
さらには、自分の判断が現在や未来において影響を及ぼすすべての人々にとってまったく公平なものとなるように、自分の知覚に少しの歪みもないという確信がなければならない。
いったい誰が、こうしたことのできる立場にいるだろうか。
尊大な空想を抱いている者以外の誰が、自分にこれができると主張するだろうか。
あなたは今までに、自分が判断に必要な「事実」を全部知っていると思ったことが何度あったか、そしてそのあなたがいかに間違っていたか、思い出してみなさい!
このような経験をしたことのない者がいるだろうか。
自分が間違っているとは少しも気づくことなく、ただ正しいと思い込んでいたことが、これまで何度あったか、あなたは知っているだろうか。
なぜあなたは、決断するためにそのように独断的な根拠を選ぼうとするのだろう。
叡智とは判断することではない。
それは判断を放棄することである。
それならば、もう一度だけ判断を下しなさい。
それは次のような判断である。
完璧な判断ができる存在があなたと共に居る。
その存在は、過去、現在、未来にわたる事実のすべてを知っている。
自らの審判が、それに何らかの関わりがあるあらゆる人々や一切のものごとにどのように影響するか、そのすべてを知っている。
そしてこの存在の知覚には歪みがないので、誰に対してもまったく公平である。
それゆえに、惜しむことなく、感謝の吐息と共に、判断を手放しなさい。
かってあまりの重さゆえによろめいてその下敷きになったほどの重荷から、今やあなたは解放される。
そしてそれはすべて幻想だった。
ただそれだけのことである。
今、神の教師は重荷を背負わず、身軽になって歩んでいける。
しかし彼が受ける恩恵はそれだけではない。
気がかりという感覚がなくなっている。
彼には気がかり自体がなくなったからである。
彼はそれを判断と一緒に手放してしまった。
彼は、今や自分の判断の代わりに聖霊の審判を信頼することを選択しており、聖霊に自分自身を委ねた。
彼はもはや間違わない。
彼の導き手は確実である。
そしてかって判断を下すために来たところに、彼は祝福するために来る。
今彼が笑っている場所は、かっては嘆き悲しむために来ていた場所である。
判断を放棄することは難しいことではない。
しかし、それを保持しておこうとすることは、まさしく難しいことである。
神の教師はその代価を認識した瞬間、喜んで判断を捨て去る。
彼が自分の周囲に見ている醜さはすべて、判断から生じたものである。
彼が目にしている苦痛はどれもみな、それがもたらしたものである。
すべての孤独や喪失感、過ぎゆく時間や募りゆく失望、蝕むような絶望や死の恐怖、こうしたすべてが、判断から生じたのである。
今では、彼はこれらのことがこのようである必要はないと知っている。
そのうちの一つも真実ではない。
それは、彼がそれらの原因を手放したからである。
そして、彼の間違った選択の結果でしかなかったそれらのものは、彼から剥がれ落ちて消え去った。
神の教師よ、この一歩はあなたに平安をもたらす。
これだけを望むのは難しいことだろうか。