あらゆるノイズも喧噪も、聖霊は「無音」で応える。
「無音」が真実そのもの。
「無音」の中で安らいでいる。
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「無音」は怖いものだと思っていたし、何もかもが終わってしまうと思っていたけど、逆だった。
逆にいけばいくほど、ゆるぎなさがあった。
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自分が作った借り物の世を、ただそっと置く。
指一本ふれない静けさ。
この信頼そのものが生命。
この平和な輝きの中にいよう。
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十一. どのようにすれば、この世界で平安が可能となるのか
これは誰もが尋ねずにはいられない質問である。
確かに、ここでは平安は不可能に見える。
しかし神の言葉は、それだけでなく他にも不可能に見えるいくつものことを約束している。
神の言葉は平安を約束した。
さらに、死は存在しないこと、復活は必ず起こること、再生は人が受け継いでいる賜物であることも、約束した。
あなたに見えている世界は、神の愛する世界ではあり得ない。
それでも、神の言葉は神が世界を愛していると保証している。
神の言葉は、ここで平安が可能だと約束してきた。
そして神が約束することが不可能であるはずはない。
しかし、神の約束が受け入れられるには、この世界は違った見方で見られる必要があるということも真実である。
世界のあり方は、事実であるにすぎない。
それが何であるべきかを、あなたが選ぶことはできない。
しかし、それをどのように見たいかは選択できる。
実際のところ、あなたはこれを選択しなければならない。
ここで再び、判断という問題に突き当たる。
今度は、自分の判断と神の言葉のどちらのほうが真実である可能性が高いかと、自分に尋ねてみなさい。
両者は世界について異なったことを語っており、それらはあまりに正反対であるため和解させようとすることには意味がない。
神は世界に救済を差し出している。
あなたの判断は世界を咎めようとする。
神は死は存在しないと言う。
あなたの判断は、生命の必然的な結末としての死のみを見ている。
神の言葉は神が世界を愛しているとあなたに保証しているが、あなたの判断は、世界は愛しがたいものだと言う。
誰が正しいのだろうか。
両者のうちのどちらかが間違っている。
そうではないはずはない。
「テキスト」は、聖霊が、あなたの作り出したあらゆる問題に対する答えであると説明している。
そうした問題は実在するものではないが、このことは、それらを信じている者たちにとっては、無意味である。
そして誰もが自分の作り出したものを信じている。
というのも、それは彼が信じることによって作り出されたものだからである。
この奇妙で逆説的な状況の中に---すなわち意味がなく分別に欠けているが、そこから脱出する道はないかに見えている状況の中に---神はあなたの判断に応えるために、ご自身の審判を送り込んだ。
穏やかに、神の審判があなたの判断に代わるものとなる。
そしてこの代替を通して、理解不可能なものが理解可能となる。
どのようにすれば、この世界の中で平安が可能となるのか。
あなたの判断によればそれは不可能であり、可能となることは絶対あり得ない。
しかし神の審判によれば、ここに反映されているのは平安のみである。
争いを眺めている者たちに、平安はあり得ない。
平安を差し出す者たちには、平安は必然である。
それならば、いかに容易に、世界に対するあなたの判断から逃げられることだろう!
世界が平安を不可能に見せているのではない。
あなたの見ている世界のほうこそ、存在不可能なのである。
しかしこの歪んだ世界に対する神の審判が世界を救い、それを平安を迎えるにふさわしいものにした。
そして嬉々としてそれに応えて、平安が降りてくる。
今や、平安はここに属している。
神の想念が入ってきたからである。
神の想念以外の何が、ただそれ自体として存在するだけで、地獄を天国に変えられるだろう。
地はその恩恵あふれる臨在を前にして頭を垂れ、それに応えて神の想念は身をかがめ、再び地を起き上がらせる。
今や質問は変わっている。
もはや、「この世界で平安が可能だろうか」ではなくなり、「ここでは、平安の不在は不可能ではなかろうか」となる。