【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 十三. 犠牲の真の意味は何か

この世界の”見方”を勘違いしてしまっている。

 

このことを、「犠牲」というんだなぁ。

 

なにかを得られず、そのことで「がっかりする」とき、わたしは間違っているのだ。

 

自分のことを、”身体で個人”なんだと思い込んだままでこの世界を見ているかぎり、「がっかりする」ようになっている。

 

なぜなら、物質の世界は、常に壊れゆく「がっかり」の世界なのだから。

 

その証拠に、なにかが得られたときの喜びには、こんどはそれを失う「恐怖」もセットになっている。

 

得られたものをキープしなければならなくなったり、得られたのに、充分満足できずに「これじゃなかった」とさらに「がっかり」したり。

 

「がっかり」とは、ジャッジの世界を信じているということ。

 

「がっかり」とは、罪の世界を信じているということ。

 

こうして、自分や、人や、世界の物事へのジャッジという処罰に夢中になることで、”本当のよろこびという居場所”にたどり着かないようにしているのだ。

 

・・・

 

「奇跡講座」は、それに気づかせてくれた。

 

この【十三. 犠牲の真の意味は何か】にて、丁寧に説明してあり、気づきが深まった。

 

・・・

 

また、「がっかり」したとしても、本当のよろこびがそのすぐ下にあることにも安心した。

 

「がっかり」の反応が出たなら、それは「エラー」というだけ。

 

「勘違いしてますよ~」というお知らせ。

 

それは「分離」という勘違いのエラー。

 

ということは、「がっかり」に力はない。

 

だから、安心して、「がっかり」を避けることなく、そのまんま、丸ごと認めて、感じて、受け入れる。

 

それをまるごと冷静に観察してみる。

 

「がっかり」した”対象”に向けていた「期待」、「欲求」を認める。

 

「わたしはこれがないと充分ではないし、満たされない」という考えがあったんだなぁ~と理解してあげる。

 

これまでは、それを「外」にて解消しようとして、エンドレスに求め続けていたけど、それが勘違い。

 

ぎゃくに、聖霊という内側の「静けさ」にうち明けるのみ。

 

そしたら、「がっかり」は、”終わりのない罰ゲーム”なのだなぁ、と見抜かれていく。

 

「期待」、「欲求」は、勘違いである”分離の思考”から生まれる「恐怖」が起こしているのだ。

 

・・・

 

こうして、「がっかり」を生じさせた「期待」、「欲求」は、内側の静けさにもちこまれ、包まれていく。

 

なんの実体もないものだった・・・。

 

「外」で解消しょうと、「自分」でなんとかしなくていいんだったとわかって安心する。

 

というか、自分でなんとかなんてできない、と認める。

 

「わかりません~」。

 

そのまるごとが、内側にもちこまれ、ゆだねられることで、安堵感があふれる体験に満ちていく。

 

愛という全体にふれ、「わたしはこれがないと充分ではないし、満たされない」という根拠のない考え、罰ゲームは、少しづつ薄れて、消えていく。

 

「がっかり」は、結局は安堵に変わり、笑いとよろこびを連れてきてくれる。

 

「平安」へ連れていってくれる。

 

その気づきへのスイッチにすぎない。

 

だから、安心して、抑圧することなく、「がっかり」をむかえ入れ、「平安」への機会にしたい。

 

・・・

 

十三. 犠牲の真の意味は何か

 

真理においては、「犠牲」という言葉がまったく無意味であるが、この世界においては、確かにそれには意味がある。

世界のすべてのものごとと同様に、それがもつ意味は一時的なものであり、そのための用途がなくなったときには、それが生じてきた場である無の中に、いずれは消えてゆく。

今は、その真の意味は、それが一つのレッスンだということである。

このレッスンも、すべてのレッスンと同じく一つの幻想である。

というのも、実相においては学ぶべきことは何もないからである。

だが、この幻想は、訂正の仕組みと入れ替えられなければならない。

それは、最初の幻想と入れ替わるもう一つの幻想であり、それにより、最後には両方が消え去ることが可能になる。

別の思考体系が定着できるようになる前にまず取り除かなければならない最初の幻想とは、この世界のものごとを手放すことは犠牲だという考えである。

この世界自体が幻想でしかないのだから、この考えが幻想でなくて何だろうか。

 

この世界が与えることのできるものなど何もないという事実を悟り、受け入れるには、多大な学びを必要とする。

無を犠牲にすることに、どのような意味があり得るだろうか。

それは、そうした犠牲のゆえにあなたの持ち分が減るという意味にはなり得ない。

この世界が定義する犠牲で、肉体に関連しないものはない。

世界が「犠牲」と呼んでいるものについて、しばし考えてみなさい。

権力、名声、金銭、肉体にまつわる楽しみなど、これらすべてのものの所有者である「主人公」とは誰だろうか。

こうしたものは、肉体以外のものにとって、何の意味があるだろうか。

だが、肉体には評価するということができない。

こうしたものごとを追い求めることによって、心は自らを肉体と結びつけて考え、自らのアイデンティティーを曖昧にし、自らの真の本性を見失う。

 

ひとたびこの混同が起こると、この世界の「楽しみ」のすべてが無であると理解することが、心には不可能となる。

しかし、このすべては、何という犠牲を伴うことだろう。

そしてこれこそが、まさしく犠牲である!

今や心は、見つけることなく探し求めるという運命を自分に宣告したことで、永遠に満足も充足もできず、自分が本当は何を見つけたいのかもわからなくなっている。

自分自身へのこのような宣告から、逃れられる者がいるだろうか。

神の言葉を通してのみ、逃れることが可能になり得る。

なぜなら、自分への宣告とは自分のアイデンティティーについての決断であり、誰も、自分で自分だと信じているものを疑うことはないからである。

あらゆるものごとを疑うことはできるが、これだけは決して疑えない。

 

神の教師たちが世界の楽しみを諦めるのを残念に思うことはあり得ない。

苦痛を諦めることは犠牲だろうか。

大人が子供の玩具を諦めるのを嫌がるだろうか。

自らの心眼ですでにキリストの顔を垣間見た者が、屠殺場を懐かしんで振り返ったりするだろうか。

世界とその中にある病苦のすべてを逃れてきた者は、世界を咎めようとして振り返ったりはしない。

それどころか、世界の価値観が彼に要求していた犠牲のすべてから自分が自由であることを、彼は喜ぶに違いない。

世界の価値観に対して、彼は自分の平安のすべてを犠牲にしている。

それらに対して、自分の自由のすべてを犠牲にしている。

そしてそれらを所有するためには、彼は天国の希望と父の愛の想起を犠牲にしなければならない。

正気の心でいる者なら、いったい誰が一切の代替として無を選ぶだろう。

 

犠牲の真の意味とは何だろうか。

犠牲とは幻想を信じることの代償である。

それは、真理を否定するために支払わなければならない代価である。

この世界の楽しみのうちで、これを要求しないものは一つもない。

そうでなかったなら、そうした楽しみは苦痛と見られることになり、それと認識して苦痛を求める者などいないからである。

彼を盲目にするのは、犠牲という概念である。

彼には、自分が何を求めているのかが見えていない。

それゆえに彼は、数限りない方法で、数限りない場所にそれを探しまわり、毎回、それはそこに在ると信じつつも、その都度、最後には落胆することになる。

こうして「探せよ、がされど見つけることなかれ」がこの世界の厳しい掟であり続け、世界のゴールを目指す者で、それ以外のことができる者はいない。

 

自分が真に大切にしているもののすべてを犠牲にすることをこのコースが要求していると、あなたは信じているかもしれない。

ある意味では、それは真実である。

なぜなら、あなたは神の子を十字架につけるものを大切にしており、このコースの目的は神の子を自由にすることだからである。

しかし、犠牲が何を意味しているのかを誤解してはならない。

それは常に、自分が望んでいるものを諦めることを意味する。

神の教師たちよ、それならば、あなたの望むものとはいったい何なのだろうか。

あなたは神に召し出され、そしてそれに応えた。

今になって、あなたはその召命を犠牲にしようというのだろうか。

まだごく少数の者たちしかそれを聞いてはいない。

そして、彼らにはただあなたに頼ることしかできない。

その他に、この世界のどこにも彼らが信頼できる希望はない。

その他に、この世界のどこにも神の声をこだまする声はない。

あなたが真理を犠牲にしようとすれば、彼らは地獄にとどまる。

そして彼らがそこにとどまるなら、あなたも彼らと共にとどまることになる。

 

犠牲とは全面的なものごとであることを忘れてはならない。

中途半端な犠牲というものはない。

天国を部分的に諦めることはできない。

少しだけ地獄に居るということもできない。

神の言葉に例外はない。

このことが、それを神聖にし、世界を超越したものとする。

この聖性が、神への道を指し示す。

この聖性が、あなたを安全にする。

何のためであれ、あなたが兄弟を攻撃するなら、この聖性は否定される。

ここにおいて、神からの分裂が生じるからである。

それはあり得ない分裂である。

起こり得ない分裂である。

それでも、それは、あなたが確実に信じることになる分裂である。

なぜなら、あり得ない状況をあなたが設定してしまったからである。

そしてその状況においては、あり得ないことが起こり得るように見える。

それは真理を「犠牲にして」起こるように見える。

 

神の教師よ、犠牲の意味を忘れてはならない。

そして、あなたが下す決断の一つひとつが、代償という観点から何を意味するかを思い出しなさい。

神を選ぶ決断をしなさい。

そうすれば、一切があなたに無償で与えられるだろう。

神に逆らう決断をするなら、あなたは一切についての自覚を代償にして、無を選ぶことになる。

あなたは何を教えたいだろうか。

あなたが学びたいことだけを覚えていなさい。

なぜなら、あなたの関心は、そこに留まるべきだからである。

贖罪はあなたのためにある。

あなたの学びが、それをあなたのものとし、あなたの学びが、それを与える。

世界はそれを内包してはいない。

ただこのコースを学びなさい。

そうすれば、それはあなたのものとなる。

神の御言葉をあなたに差し出している。

それは、神が教師たちを必要としているからである。

神の子を救うために、他にどのような道があるだろうか。