【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 十四.世界はどのように終わるのか

目の前のひとりの人に、ただのひとつも「違い」を見なくなる。

 

それは、「思考」が捨て去られた、ということ。

 

その「思考」は、止める必要はない。

 

それはただ見過ごされていく。

 

この解放以外の解放はない。

 

そもそも、始まってなどいなかった。

 

思考の中で作られている物語りでしかない。

 

全体という祝福、光だけがあった。

・・・

十四.世界はどのように終わるのか

 

始まってもいないものに、真に終わりがあり得るだろうか。

世界は、それが始まったときと同じく、幻想の中で終わる。

だが、その結末は慈悲という幻想である。

誰も除外せず、限りなく優しい完全な赦しという幻想が、それを包み、すべての悪を隠し、すべての罪を覆い、罪悪を永遠に終わらせるだろう。

そのようにして、罪悪が作り出した世界は終わる。

なぜなら、そのときそれには目的がなくなり、それは消え去っているからである。

幻想を生み出した父とは、幻想に目的があるという信念である。

すなわち、幻想が何らかの必要に応え、望みをかなえるという信念である。

目的のないものとして知覚されたなら、もはやそれらが見られることはなくなる。

それらの無用性が認識され、消えてしまう。

これ以外にどのようにして、すべての幻想が終わるだろうか。

それらは真理のもとに運ばれており、真理はそれらを見なかった。

真理はただ無意味なものを見過ごしただけである。

 

赦しが完了するまでは、世界には確かに目的がある。

それは、赦しの発祥の地となり、そこで赦しが成長し、力を増し、すべてを包み込むようになる。

ここでそれが必要とされるので、ここでそれが育まれる。

それは、罪が作り出されて、罪悪が実在するかに見える場所で生まれた、優しい救済者である。

ここに彼の家がある。

なぜなら、ここでこそまさしく彼が必要とされているからである。

彼が自ら世界の終わりを運んでくる。

神の教師たちは彼の呼びかけに応えるのであり、彼の言葉を受け取るために、静かに彼のほうを向く。

世界の中にあるすべてのものが、彼の審判によって正しく裁かれたとき、この世界は終わる。

世界は聖性の祝福を受けて終わるだろう。

罪の想念が一つも残っていないとき、世界は過ぎ去る。

破壊されることも、攻撃されることもなく、触られることさえない。

ただ、存在しているように見えることをやめるだけである。

 

確かに、これははるか遠い未来のことのように思える。

「罪の想念が一つも残っていないとき」とは、まさに長期にわたって目指すゴールであるかに見える。

しかし、時間は静止して神の教師のゴール達成を待っている

神の教師の誰かひとりが贖罪を受け入れた瞬間に、罪の想念は一つも残っていないだろう。

一つの罪を赦すほうがすべての罪を赦すより易しいということはない。

難しさの序列という幻想は、神の教師が、通り過ぎ、後にしなければならない障害である。

ひとりの神の教師により完全に赦された罪が、救済を完全なものにする。

あなたにこれが理解できるだろうか。

できはしない。

ここに居る誰にとっても、それは意味をなさない。

それでも、それが最後のレッスンであり、そこにおいて一体性が回復される。

それは世界の思考のすべてに逆行するものであるが、天国もまた、世界の思考に逆行するものである。

 

世界の思考体系が完全に逆転したときに、世界は終わる。

それまでは、世界の思考の断片の数々が、依然として良識あるものに見えることだろう。

世界の終わりをもたらす最後のレッスンは、世界を離れてその狭い領域を超えて進む用意がまだできていない者たちに、把握できるものではない。

それならば、この締めくくりのレッスンにおける神の教師の機能とは何だろうか。

彼に必要なのは、どうすればそれに近づけるかを学ぶことだけであり、その方向に進もうという意欲をもつことだけである。

それが彼に学ぶことのできるレッスンだと神の声が言うのなら、自分はそれを学べると、彼はただ信頼すればよい。

彼はそれを難しいとも易しいとも判断しない。

彼の教師がそれを指し示してくれる。

そしてそれを学ぶ方法をその教師が教えてくれることを、彼は信頼する。

 

世界は悲しみの場所であるから、喜びの中で終わることになる。

喜びが訪れたときには、世界の目的は過ぎ去っている。

世界は争いの場所であるから、平安の中で終わることになる。

平安が訪れたときには、世界にどんな目的があるというのだろう。

世界は涙の場所であるから、笑い声の中で終わることになる。

笑い声のあるところで、誰が泣き続けていられるというのだろう。

そして完全な赦しのみが、これらすべてをもたらし、世界を祝福する。

世界は祝福の中で去っていく。

それは、始まった通りには終わらないからである。

地獄を天国に変えることが、神の教師たちの機能である。

彼らが教えるのは、天国が反映されているレッスンだからである。

だから今、真に謙虚になって坐り、神があなたにさせようとすることならあなたにはできると悟りなさい。

傲慢にも、あなたには神ご自身のカリキュラムを習得できないなどと言ってはならない。

神の言葉はそうは言っていない。

神の意志は行われる。

それ以外ではあり得ない。

だから、それであることに感謝しなさい。