【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 十六.神の教師は、どのように一日を過ごすべきか

この世界という時間軸の中に喜びや満足を期待していたときは、いつも苦しかったなぁと。

 

今まで、無いところに何かを見つけようとする罰ゲームを続けていたけど、もうそれをやめることをゆるした。

 

時間の中、思考の中、そして身体の中に未練がなくなっていくたびに、喜びと満足がある。

 

"ここ"以外のどこにも最初からいなかった。

 

最初からここにいた。

 

時間、思考、身体の夢はそっと優しく閉じられた。

 

どのように1日を過ごすか?

 

いつも"ここ"に過ごす。

 

・・・

十六.神の教師は、どのように一日を過ごすべきか

 

進歩した神の教師にとっては、この質問は無意味である。

レッスンは日々変化するので、学習要目といったものはない。

だが、神の教師は一つのことだけは確信している。

すなわち、レッスンがでたらめに変化するわけではないということである。

このことを見て取り、それが真実だと理解しているので、彼は満足している。

彼は、今日も明日も、毎日、自分が果たすべき役割のすべてについて教えられるだろう。

そして、その役割を彼と共有する者たちは彼を見つけ出し、それにより、その日のレッスンを共に学べるようになる。

彼に必要な者がひとりでもそこに不在ということはない。

また、その日にこそ学べる学習目標があらかじめ定められていないままで送られてくる者はひとりもいない。

それならば、進歩した神の教師には、この質問は無用である。

それはすでに問われて、答えられており、彼はその答えと恒常的に接触を保っている。

彼には準備ができており、自ら歩む道が確実かつなだらかに目の前に伸びているのを見ている。

 

しかし、まだこうした確信に達していない者たちはどうだろうか。

彼らはまだ、自分自身の役割に枠組みを設けずにいられるだけの準備はできていない。

一日を神に捧げることを習慣にするには、彼らは何をしなければならないのだろうか。

該当する一般的なルールはいくつかあるが、それらは各自が自分なりの最善のやり方でつかわなければならない。

そうしたルールをそのまま日課とすることは、危険である。

なぜなら、日課それ自体が神々となりやすく、日課が達成しょうとしていたゴールそのものを脅かしがちだからである。

それゆえに、大まかに言えば、一日を正しく始めるのがよいということは言える。

一日の始め方を間違えたとしても、いつでもやりなおすことはできる。

しかし、時間を省くという意味では、正しく始めることには明らかな利点がある。

 

最初のうちは、時間という観点から考えるのが賢明である。

これは決して究極の基準ではないが、初期の段階ではおそらく最も容易に遵守できるものである。

時間を省くことが初期において不可欠な強調点であり、これは学びの全過程にわたり重要であり続けるとはいえ、先へ進むにつれて次第に強調されなくなる。

初期の段階では、一日を正しく始めることに捧げた時間が確実に時間を省くことになると言ってもさしつかえない。

どのくらいの時間をそのように過ごすべきだろうか。

これは神の教師自身に任されなければならない。

彼は「ワークブック」を学び終えるまでは、「神の教師」という肩書きを自分のものと主張することはできない。

私たちはこのコースの枠内で学んでいるからである。

「ワークブック」に含まれているような、枠組みが設けられた練習期間を修了したのちであれば、おもに個々人の必要が考慮の対象となる。

 

このコースは常に実用的である。

神の教師が朝目覚めたときに、静かな思いに浸れる状況にないということもあるかもしれない。

そのような場合には、可能になり次第すぐに神と共に時を過ごすことを選ぼうとだけ覚えておき、そのようにすればよい。

時間の長さはさほど重要ではない。

目を閉じて一時間坐っていても、何も達成されないということはよくある。

ほんの一瞬を神に捧げて、その一瞬のうちに、神と完全につながるということも、同様に容易に起こり得る。

おそらく、一つの一般論としては次のように言うことができる。

目が覚めた後、できる限り早いうちに静かな時間をもち、それが難しいと感じ始めた後も、一、二分は続けてみる。

その難しさは減少し、消えてしまうかもしれない。

もしそうならなければ、その時が、やめるべき時である。

 

夜も同じようにする。

もし、静かに過ごす時間を就寝の直前にとることができそうもなければ、その夜の比較的早い時間にそれを行うのがよいだろう。

横になって行うのは賢明ではない。

あなたが好む姿勢で、きちんと坐って行うのがよい。

「ワークブック」を修了したあなたは、この点についてはすでに何らかの結論に達していることだろう。

しかし、できるなら、就寝の直前が、神に捧げるのに望ましい時間である。

それはあなたの心を休息しやすい状態にし、あなたを怖れから離れる方向へ向かわせる。

この時間を早めにとるほうが都合のよい場合でも、就寝直前にもほんの一瞬でよいから目を閉じて、神について考えるわずかな時間をもつことだけは忘れないようにしなさい。

 

特に、一日中覚えておくべき一つの想念がある。

それは、純粋な喜びの想念である。

すなわち、平安の想念でもあり、限界のない解放の想念でもある。

限界がないというのは、その中ではすべてのものごとが解き放たれているからである。

あなたは、自分で自分のために安全の場所を作り出したと考えている。

夢の中で見る恐ろしいものごとのすべてから自分を救える力を、自分で作り出したと考えている。

それは事実ではない。

あなたの安全はそこにはない。

あなやが放棄するのは、幻想を保護しているという幻想だけである。

そしてあなたが恐れているのはこのことであり、ただ、これだけである。

無でしかないものをこんなにも恐れているとは、何と愚かなことだろう!

まったくの無でしかないというのに!

あなたの防衛がうまくいくことはないが、あなたは危険にさらされてはいない。

防衛など必要ないのである。

これを認識しなさい。

そうすれば、それは消えてしまうだろう。

そしてそのときこそ、あなたは真に自分を保護してくれるものを受け入れるだろう。

 

神の庇護を受け入れた神の教師にとって、時間は、何と簡素に楽々と過ぎていくことだろう!

それまで安全という名目で彼が行っていたすべてのことが、もはや彼の興味を引かなくなる。

なぜなら、彼は安全であり、また、自分が安全だと知っているからである。

彼には、決して失敗することのない導き手がいる。

彼は自分が知覚しているいくつもの問題に、何の区別をつける必要もない。

なぜなら、それらすべての問題を抱える彼が頼みとしている聖霊は、それらの解決において難しさの序列を認めていないからである。

彼は、幻想を心に受け入れる以前や手放した後と同じく、現在においても安全である。

異なった時間や、異なった場所にあっても、彼の状態にはいかなる相違もない。

それらは、神のとってはみな同一だからである。

これが彼の安全性である。

そして彼には、これ以上のことは必要ない。

 

だが、神の教師がこれから旅する道にはさまざまな誘惑があるので、一日を通して、自分が守られていることを自分自身に思い出させる必要はある。

どのようにすれば彼にそれができるのだろうか。

とりわけ、彼の心が外的なものごとに囚われているときには、どうすればよいのだろうか。

ただやってみるしかない。

そして、うまくいくかどうかは、自分がうまくやれるという彼自身の確信にかかっている。

彼が確信しているべきことは、成功は自分がもたらすのではなく、自分がそれを呼び求めるときにはいつでも、どこでも、どんな状況でも、与えられるということである。

彼の確信が揺らぐときはあるだろう。

そして、それが起こった瞬間には、彼は自分のみに頼ろうとする以前のやり方に戻ってしまうだろう。

これが魔術であることを忘れてはならない。

そして魔術とは、真の援助の粗末な代替である。

そのようなものでは神の子には不充分なので、神の教師にも不充分である。

 

魔術の回避とは、誘惑の回避である。

というのも、すべての誘惑は、神の意志を別な意志で代用しようとする試み以上のものではないからである。

こうした試みは確かに恐ろしく見えるかもしれないが、単に哀れなものであるにすぎない。

それらは何の結果ももたらさない。

良くもなく悪くもなく、報奨をもたらすことも犠牲を要求することもせず、癒すでもなく破壊するでもなく、安心させるものでも恐ろしいものでもない。

すべての魔術が単なる無として認識されたとき、神の教師は最も進歩した状態に達したことになる。

そこに至るまでのレッスンはみな、ただそこに導いていき、そのゴールを認識しやすくするだけである。

なぜなら、いかなる形をしたいかなる種類の魔術であれ、それが行うことはまったくの無だからである。

その無力性こそが、そこから容易に逃れられる理由である。

何の結果も生み出さないものが、恐怖をもたらすことなどできるはずもない。

 

神の意志に代替はない。

端的に言えば、神の教師はこの事実に対して一日を捧げるのである。

実在するものとして彼が受け入れる代替は、どれもただ彼を欺くだけである。

しかし彼自身は、自分でそう決めればすべての欺瞞から安全に守られる。

彼は次の言葉を覚えておくことが必要かもしれない。

「神が私と共に居る。私は欺かれることはあり得ない」。

あるいは、彼が好むのは、別の表現であったり、一つの単語であったり、無言でいることであったりするかもしれない。

しかし、魔術を真実として受け入れたい誘惑はどれも、彼が自ら認識して、手放さなければならない。

それが恐ろしいからでも、罪深いからでも、危険だからでもなく、単に無意味だからである。

一つの誤りの二つの側面にすぎないもの、すなわち犠牲と分離に根ざしているので、彼はただ、もとより一度ももっていたことのないものを手放す選択をするだけである。

そしてこの「犠牲」と引き換えに、天国が彼の自覚に戻ってくる。

 

この交換こそが、あなたの望むものではないだろうか。

世界は、そのような交換ができると知ったなら、喜んでそうするだろう。

それができるということを、神の教師たちが教えなければならない。

それゆえに、それを確実に学ぶことが彼らの機能である。

あなたが魔術を信頼しない限り、一日中、いかなる危険もあり得ない。

苦痛へと行き着くのは魔術への信頼だけだからである。

「神の意志の他に意志はない」。

神の教師たちは、これが確かにそうだと知っており、これ以外の一切は魔術だということを学んでいる。

魔術を信じる信念のすべては、「それには効果がある」という、ただ一つの単純な幻想によって維持されている。

神の教師の訓練期間中、毎日、毎時、毎分、そして刻一刻、魔術のさまざまな形を認識し、その無意味さを知覚することを学ばなければならない。

それらの形から恐れが取り去られ、それゆえに、それらは消え去る。

そのようにして、天国の門は再び開かれ、その光が安らかな心を再び照らすことができるようになる。