「外」に違いをみて、それに不満を感じて、裁きたくなったときは、間違っている。
けど、ずっと裁く人生だった。
もうへとへとだ。
それに、だからといって、もう責めることはない。
素直に静けさに入っていくだけ。
今はとにかく、静かにいたい。
いっぱい愛に抱きしめられよう。
迷子になっていた分、幻想の時間をたっぷり余すことなく使って、ゴロゴロと甘えよう。
・・・
十八.訂正はどのようにして行われるか
神の教師が解釈を事実と混同したり、幻想を真理と混同したりすることがなくなるまでは、永続する訂正が行われることはない。
そして、永続する訂正のみが、真の訂正である。
もし彼が何らかの魔術的な考えについて自分の生徒と論争し、それを攻撃し、それが誤りであることを立証しようとしたり、その誤謬性を論証しようとしたりするなら、彼はそうした考えが実在していると証言しているにすぎない。
そうなると、憂鬱は避けられなくなる。
なぜなら、彼は自分の生徒と自分自身に対して、実在するものから逃れることが自分たちの任務だと「証明」したことになるからである。
そしてそのようなことをするのは不可能である。
実相は不変である。
魔術的想念は単なる幻想である。
そうでなければ、救済もまた、昔ながらの不可能な夢が形を変えただけのものにすぎないということになる。
だが、救済の夢には新しい内容がある。
異なっているのは、形のみではない。
神の教師にとっての主要なレッスンは、魔術的想念に対しまったく怒りを抱かずに反応する方法を学ぶことである。
それを学ぶことによってのみ、彼らは自分自身についての真理を宣言することができる。
今や、彼らを通して、聖霊が神の子の実相について語ることができるようになる。
こうして、聖霊は世界に無罪性を思い出させることができる。
無罪性とは、神が創造したすべてのものの状態であり、唯一の不変にして変更不可能な状態である。
今や、聖霊は聞こうとする耳に神の言葉を語り、見える目にキリストの心眼をもたらすことができるようになる。
今や、聖霊は、すべての心たちに心とはいかなるものであるかという真理を教えられるようになり、それによってすべての心たちは、喜び勇んで神のもとへと戻っていく。
そうして今や罪悪は、キリストの視覚と神の言葉において完全に看過されて、赦される。
怒りは、ただ「罪悪は実在する!」と金切り声をあげる。
この狂った信念が神の言葉の代わりとして受け入れられるとき、実相は抹消されてしまう。
今や、肉体の目が「見る」ことができ、肉体の耳だけが「聞く」ことができるということになる。
そのわずかな空間とかすかな息づかいが、実在性の尺度となる。
そして真理は矮小で無意味なものとなる。
これらすべてと、それに立脚している世界に対し、訂正はただ次のような一つの答えを差し出す。
あなたは解釈を真理と取り違えているだけである。
そしてあなたは間違っている。
しかし間違いは罪ではなく、あなたの間違いによって実相はその玉座を奪われてはいない。
神は永遠に君臨し、神の法則だけが、あなたとこの世界を支配している。
神の愛のみが、存在する唯一のものであり続ける。
怖れは幻想である。
あなたは神と同質のものだからである。
したがって、癒すためには、神の教師が自らの間違いをすべて訂正してもらうことが不可欠となる。
彼が誰かに応答する際に、たとえかすかにでもいらだちを感知してたなら、その瞬間ただちに、自分が真実ではない解釈をしたと彼に認識させなければならない。
その後、彼を内なる永遠の導き手に向かわせ、どう返答すべきかをその導き手に判断してもらわなければならない。
そのようにして彼は癒され、彼の癒しにおいて、彼の生徒も彼と共に癒される。
彼の教師の唯一の責任は、贖罪を自分に受け入れることだけである。
贖罪とは訂正であり、誤りを取り消すという意味である。
これが達成されたとき、神の教師は、奇跡を行う者になったと定義される。
彼の罪は赦されており、彼はもはや自分自身を咎めることはしない。
そのとき、彼に誰かを咎めることなどできるだろうか。
そして、彼による赦しが癒すことのできないような誰かがいるだろうか。