【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 十九. 正義とは何か

ここで述べられる「正義」は、物質世界で言われている「正義」とは逆。

 

見るところを正すという意味での「正義」のこと。

 

今まで見ている世界がただ間違っている。

 

間違っているところをみて間違っているとずっと叫んでいる。

 

だから、それはそれで、間違っていない。

 

わたしたちはずっと間違いを作り出している世界を嘆いている。

 

これ以上の罰はない。

 

そして罪を信じているからこそ、見続けている。

 

永遠に解決不可能な世界に自らとどまっている。

 

そして、この間違ったところ自体から目を離しなさいと促しているのがコースの「正義」なのだ。

 

「もうそこから目を離していいよ」

 

「目を離したからといって、何にも怖いことは起こらないよ」

 

「逆に、安らぎ、喜びに満ち溢れるよ」と。

 

コースの正義は裁かない。

 

コースの正義は慈悲、慈愛そのもの。

・・・

十九. 正義とは何か

 

正義とは、不正義に対する神による訂正である。

不正義が、世界のすべての裁きの根拠である。

正義は、不正義が引き起こす解釈を訂正し、相殺する。

天国には正義も不正義も存在しない。

誤りは起こり得ず、訂正は無意味だからである。

しかし、この世界では、赦しは正義に依拠している。

すべての攻撃は不正でしかあり得ないからである。

正義とは、聖霊が世界に下す判決のことである。

聖霊の審判によらなければ、正義は不可能である。

なぜなら、この世界には、公平な解釈だけをして、すべての不正義を退けることのできる者はいないからである。

神の子が公平に審判されていれば、救済の必要はないはずである。

分離の想念など、永遠に、思いもよらないものだっただろう。

 

正義も、その対極と同様に、一つの解釈ではある。

しかしそれは、真理に至る唯一の解釈である。

これが可能となる理由は、正義はそれ自体では真実ではないとはいえ、真理に対立するものを何一つ含んでいないからである。

正義と真理の間には何ら本質的な葛藤はなく、一方は他方へ向かう最初の小さな一歩にすぎない。

進んでいくにつれ、この道はかなり違ったものとなっていく。

また、旅を続けるにつれて目前に現れてくる壮大さや、雄大な景観や、広々と開けていく眺望のすべてについて、あらかじめ知ることはできない。

だが、それらの壮麗さは先に進むにつれて言葉に尽くせぬ高みまで達するとはいえ、そうしたものでさえ、この道程が消滅してそれと共に時間が終わるときに待っているすべてに比べれば、その足元にも及ばない。

しかし、人はどこからか出発しなければならない。

正義がその始まりである。

 

あなたの兄弟やあなた自身についてのあらゆる概念や、未来の状態に対する過去に関する懸念のすべては、不正義から生じる。

これは肉体の目の前に掲げられて、知覚を歪めているレンズであり、これが、そのレンズを作り出して大切にしている心へと、歪んだ世界の証しをもち帰る。

世界の概念はどれもみな、まさにこの方法で、選択的かつ独断的に構築されている。

「罪」は、入念な選択により知覚され、正当化され、その選択性の中では、全一性に関するすべての想念が失われている。

そのような計略の中には、赦しの居場所はない。

どの「罪」も永遠に真実であるかに見えるからである。

 

救済とは神の正義である。

それは、決裂して分離したものとして知覚されている無数の断片の本来の全一性を、あなたが再び自覚できるようにする。

これが、死に対する恐れを克服する。

なぜなら、分離した断片は朽ちて死ぬ以外にないが、全一性は不滅だからである。

それは創造主とひとつであるから、いつまでも永遠に、創造主と同質であり続ける。

神の審判が、神の正義である。

このまったく咎めのない審判の上に、そして、完全に愛だけに基づく評価の上に、あなたは自分の不正義を投影した。

そして、自分が見るときに使っている歪曲された知覚のレンズを、神にも付与した。

そうして今や、不正義は神に属し、あなたには属していないことになる。

あなたは神を恐れており、自分が自らを敵として憎み恐れているということが見えなくなっている。

 

神の正義のために祈りなさい。

そして、神の慈悲をあなた自身の狂気と混同してはならない。

知覚は、心が見たいと望むどのような映像でも描き出すことができる。

このことを覚えておきなさい。

この中に、あなたの選ぶままに、天国か地獄かのどちらかがある。

神の正義は、まったく偽りなく公平であるからこそ、天国を指し示す。

それは、自らの前に差し出されるすべての証拠を受け入れ、何も除外せず、何も他のすべてから隔離されて切り離されたものと見なすことはない。

それは、ただこの一なる見地から、そしてそれのみから、審判を下す。

ここでは、すべての攻撃と咎めが無意味となり、弁護の余地なきものとなる。

知覚は停止し、心は静まり、光が再び戻ってくる。

今や、心眼が回復する。

失われていたものが、今、見つかった。

神の平安が全世界に天下り、私たちは見ることができる。

見ることができるのである!