限定的である「思考」で見ない。
見ても、それはただのなんでもないもの。
すべてが被造物で、祝福されている。
その気楽さのなかでくつろぐ。
癒され、赦されている。
ごめんなさい。
ありがとう。
愛している。
この”感覚”に素直になる。
ここにきて、「ホオポノポノ」。
でも、以前は大きな勘違い。
言葉にとらわれていたし、自我の世界に対する魔術として使っていたから、魔術として使う限り、これらの言葉は、逆に苦しみをうむ。
そうではなくて、言葉じゃなくて、この言葉が導かれる「感覚」のところ。
この「感覚」を認めて、感じてしまう、受け入れてしまう。
それが自我を退け、そのうち、自我は優しく消えていく。
これらの「感覚」が、全体への入り口なんだなぁ。
怒りの下にある弱々しい感覚とは、この感覚だ。
これを迎え入れて、受け入れる。
そして、
素直さ、オープン、包括性へと導かれる。
全体。
愛。
・・・
二十二.癒しと贖罪はどのようにして関連しているか
癒しと贖罪は関連しているのではない。
同じものである。
奇跡に難しさの序列がないという理由は、贖罪に程度の差がないからである。
それはこの世界で可能な唯一の完全な概念である。
なぜなら、それが完全に統一された知覚の源だからである。
部分的な贖罪などというものは無意味な概念である。
それはちょうど、天国の中の特別な区域としての地獄といったものは考えられないのと同じである。
贖罪を受け入れなさい。
そうすれば、あなたは癒される。
贖罪は神の言葉である。
神の言葉を受け入れなさい。
そうすれば、病気を可能にするものは何も残らない。
神の言葉を受け入れなさい。
そうすれば、すべての奇跡が達成されたことになる。
赦すことは癒すことである。
神の教師は、自分自身に贖罪を受け入れることを自らの唯一の機能として受け入れた。
それならば、彼が癒すことのできないものなどあるだろうか。
彼に与えられずにおかれる奇跡などあるだろうか。
神の教師の進歩は、遅くもなれば、速くもなる。
それは、彼が贖罪の包括性を認識しているか、それとも、しばらくの間いくつかの問題領域をその包括性から除外しているかにかかっている。
ある教師たちの場合は、贖罪のレッスンはすべての状況に完璧に当てはまるという完全な自覚が突然訪れることもあるが、これは比較的まれである。
神の教師が神から与えられた機能を受け入れてからでも、長い間、その受容が差し出しているもののすべてについては知らずにいることもある。
確実なのはその最終到達地点だけである。
その途中のどこかで、包括性という不可能な認識が彼に訪れることだろう。
その道のりが長く思えたとしても、彼はそれに満足すべきである。
自分の進みたい方向について、彼は決断したのである。
それ以上の何が、彼に求められていただろう。
そして、求められていたことを実行したのであれば、神がその他のものを与えずにおくということがあるだろうか。
神の教師が進歩するためには、赦しとは癒しであると理解する必要がある。
肉体が病気になり得るという考えが、自分の思考体系における中心的概念である。
この考えが肉体に自律性を与え、肉体から心を分離し、攻撃という概念を侵しがたいものとして保持する。
もし肉体が病気になるということが可能なら、贖罪は不可能なものとなる。
肉体が自らふさわしいと思うことを心に命令できるとしたら、肉体は神の座を奪い、救済が不可能だと証明できることになる。
そうなったら、癒すべき何が残るだろう。
肉体が心の主人となってしまった。
肉体が殺されない限り、心はどうやって聖霊に帰ることができるだろう。
そして、そのような代価を払ってまで、誰が救われたいと望むだろう。
確かに、病気は決断であるようには見えない。
また、誰も自分が病気になりたいと望んでいるなどと、実際には信じない。
おそらく理論上はそうした考えを受け入れることはできるだろう。
しかし、個々人による自分自身とすべての他者についての知覚において、この考えが病気の具体的な形態のすべてに一貫して適用されることは、仮にあるとしても、非常に稀である。
また、神の教師が癒しの奇跡を喚起するのは、このレベルにおいてではない。
彼は心と肉体を共に見過ごし、彼の前に輝くキリストの顔だけを見て、すべての間違いを訂正し、すべての知覚を癒す。
癒しとは、癒しを必要としているのは誰なのかを、神の教師が認識することによりもたらされる結果である。
この認識は特別な何かを対象とするものではない。
それは神が創造したすべてのものに関して真実である。
この認識の中で、すべての幻想が癒される。
神の教師が癒すことに失敗するとき、その理由は、彼が自分は誰であるかを忘れてしまったからである。
したがって他者の病気が自分自身の病気となる。
こうなることを容認するとき、彼は他者と自我と自分を同一視して、そうして自分自身を肉体と混同してしまっている。
そうすることにより、彼は贖罪を自分自身に受け入れることを拒否してしまい、キリストの名においてそれを兄弟に差し出すことはほとんどできなくなっている。
実際のところ、彼は兄弟を認識することがまったくできなくなるだろう。
なぜなら、彼の父は肉体を創造したことはなく、それゆえに、彼は実在しないもののみを彼の兄弟の中に見ていることになるからである。
間違いは間違いを訂正することはなく、歪んだ知覚は癒すことはしない。
神の教師よ、今、一歩退きなさい。
あなたは間違っていた。
あなたは道に迷ったのだから、先導してはならない。
速やかに、あなたの教師のほうを向いて、あなた自身を癒してもらいなさい。
贖罪は遍く差し出されている。
それはあらゆる状況にあるあらゆる個人に、同様に適用できる。
そして、その中に、すべての個人をすべての形態の病気から癒す力がある。
これを信じないことには、神に対して不当だということであり、したがって神に対して不誠実だということである。
病気の者は、自分自身を神から分離していると知覚している。
あなたは彼があなたから分離していると見たいだろうか。
彼を病気にさせた分離の感覚を癒すことが、あなたの任務である。
彼が彼自身について信じていることは真実ではないと、彼に変わって認識することが、あなたが果たすべき機能である。
あなたによる赦しが、必ずこれを彼に示すことになる。
癒しは非常に単純である。
贖罪は受け取られて、差し出される。
受け取られたのだから、それは受け入れられているに違いない。
それならば、受け取るということの中に、癒しがあるということになる。
他のすべては、この単一の目的の後に続く。
いったい誰が、神ご自身の力を限定できるだろう。
それならば、どの人が何から癒されることができるか、何が神の赦しの力の及ばないところにとどまらなければならないかなどといったことを、誰が語れるだろう。
そのようなことはまさしく狂気である。
神の教師の裁量で神に限定を課すことはできない。
なぜなら、神の子を裁くことは神の教師の裁量に任されてはいないからである。
そして神の子を裁くということは、父を限定することである。
どちらも同様に無意味である。
だが、神の教師がそれらは同じ間違いだと認識するまでは、このことが理解されることはない。
この認識において、神の教師は贖罪を受け取ることになる。
なぜなら、彼は神の子に対する裁きを取り下げ、神の子を彼が創造したままのものとして受け入れるからである。
彼はもはや、癒しがどこに与えられて、どこに与えずにおかれるべきかを判断して、神から離れて立つことはなくなる。
今や、彼は神と共に言うことができる。
「これは私の愛する子、完全無欠に創造され、永遠にそのままであり続ける者である」と。