今も昔もわたしたちは「イエス」と一緒にいる。
それはひとつのものだから。
イエスを本当に思い出すときに流れ込むゆるぎなさ、安心感、リラックス、喜び、謝罪、感謝。
この感覚に素直でいよう。
もう、ここから離れない。
離れる必要がない。
擬人化の表現に惑わされる必要はないので、名前自身にこだわることはないけど、それでも、「イエス・キリスト」とつぶやいたとき、すべてが全体の中で休らう。
そのゆるぎない豊かさのなかで満ちる。
・・・
神の贈り物が、直接受け取られることは稀である。
神の教師のうちで最も進歩した者たちでさえ、この世界では誘惑に屈することがある。
そのせいで彼らの生徒たちに癒しが拒まれるとしたら、それは公平だろうか。
聖書は「イエス・キリストの名によりて求めよ」と述べている。
これは単なる魔術を求める懇願だろうか。
名前が癒すことはなく、祈祷も何ら特別な力を喚起することはない。
イエス・キリストに頼むとは、どういう意味だろうか。
彼の名に呼びかけることで、何が与えられるだろうか。
なぜ、彼への懇願が癒しの一部なのだろうか。
私たちはこれまで、自分自身に完全に贖罪を受け入れたひとりの者が世界を癒すことができると、何度も繰り返してきた。
まさしく、彼がすでにそのように受け入れたのである。
誘惑は、他の者たちにとっては繰り返されるかもしれない。
しかし、このひとりには決してそのようなことはない。
彼は復活した神の子となった。
彼は生命を受け入れたので、死を克服した。
彼は神が彼を創造したままに自分自身を認識した。
そしてそうすることにおいて、生きとし生けるもののすべてを自分の一部と確認した。
今や、彼の力には限界がない。
なぜなら、それは神の力だからである。
同様に彼の名となった。
なぜなら、もはや彼は自分自身を神から分離したものと見ていないからである。
このことはあなたにとって、何を意味するだろうか。
それは、あなたがイエスと思い出すことにおいて神を思い出すという意味である。
神の子と神との関係全体が、彼の中にある。
一なる子における彼の役割はあなたの役割でもあり、彼の完了した学びが、あなたの成功を保証する。
彼は今も助けてくれるだろうか。
彼はこのことについて、何と言っただろうか。
彼の約束を思い出しなさい。
そして、彼が約束を守りそこなう可能性があるかどうかと、正直に自問してみなさい。
神が神の子を見捨てたりするだろうか。
そして、神とひとつである者が神とは違うということがあり得るだろうか。
肉体を超越している者は、制限を超越したのである。
最も偉大な教師が、彼に従う者たちを助けられないということがあるだろうか。
このようなイエス・キリストの名は象徴にすぎない。
しかしそれは、この世のものではない愛を表している。
それは、あなたが祈りを捧げているすべての神々の数多くの名の代わりとして、安全に使うことのできる象徴である。
それは神の言葉の輝かしい象徴となる。
しかも、それが表しているものにあまりに近似しているので、その名が思い浮かべられた瞬間、両者の間のわずかな隔たりが失われているほどのものである。
イエス・キリストの名を思い出すとは、神があなたに捧げた贈り物のすべてに感謝を捧げることである。
そして神への感謝は、神を思い出す方法となる。
なぜなら、愛は、ありがたく思う気持ちや感謝する心から遠く離れてはいられないからである。
これらがあなたの帰郷のための真の条件であるから、神は容易に中に入ってくる。
イエスは道を先導してきた。
なぜあなたは、彼をありがたく思わないのだろう。
彼は愛を求めたが、それはただあなたにそれを与えるためである。
あなたは自分自身を愛していない。
しかし、彼の目から見ればあなたの麗しさは実に完全で非の打ちどころがなく、その中に彼は父の姿を見ているほどである。
あなたがこの地上で、父の象徴となる。
彼はあなたに希望を抱いている。
彼はあなたの中に、あなたの美しい完全無欠性を損なう限界や汚点を一つも見ていないからである。
彼の目には、常にまったく変わることなく、キリストの心眼が輝いている。
彼はあなたと共にとどまり続けてきた。
あなたは、彼の学びを通して、救済のレッスンを学びたくはないだろうか。
彼がすでにあなたのために旅を終えているというのに、なぜあなたは再び最初から始めることを選ぶのだろうか。
地上にいる者は誰ひとりとして、天国とは何か、また、その唯一の創造主とは何を意味するのかを把握することはできない。
だが、私たちには証人たちがいる。
叡智があるなら、頼るべき相手は彼らである。
私たちが学べることをはるかに超えて、学んだ者たちがいる。
また私たちは、自分で自分に課した限界について教えるのでもない。
真の貢献的な教師となった者は、兄弟たちを忘れない。
だが、その教師が兄弟たちに差し出せるものは、彼自身が自分で学んだことにより限定される。
それならば、すべての限界を退けて学びの最先端を超えていった者に、頼りなさい。
彼はあなたを一緒につれて行くだろう。
彼ひとりで超えていったのではないからである。
そしてそのときも、あなたは、今と同じように、彼と共に居たのである。
このコースは彼からもたらされたが、それは、あなたが愛し、理解できる言語で、彼の言葉があなたのもとに届いたからである。
他の言語を話し、異なる象徴に訴える者たちにも、道を先導するための他の教師たちが存在するのだろうか。
もちろん存在する。
神が、苦境のときにすぐにも間に合う助力や、神ご自身を象徴できる救済者を与えずに、誰かを放っておいたりするだろうか。
だが、私たちには多面的なカリキュラムが必要である。
しかしその理由は、内容に相違があるからではなく、象徴というものは必要に応じて移り変わり、変化しなければならないものだからである。
イエスはあなたの必要に応えるためにやってきた。
彼の中に、あなたは神の答えを見つけるだろう。
だから、彼と共に教えなさい。
彼はあなたと共に居る。
彼はいつでもここに居る。