もう輪廻転生したくない、という気持ちがあった。
だから、今生で、どうにか悟りたいというふうに思っていた。
でも、それは「自我」を”脅威”と見ていたからだった。
「自我」の世界の、苦しくて、めちゃくちゃで、狂暴な狂ったところはもう懲り懲りだと疲弊していたけど、それは「自我」の世界に価値があると思い込んで、そんなふうに見ていたからなのだ。
価値もなければ、力もない。
ただ、価値があると信じ、力があると信じていただけ。
苦しさも、めちゃくちゃで狂暴で狂った世界は、どこにもない。
実体はない。
思考の中だけにある。
だから、輪廻転生するとか、しないとかにも、何の影響も、力もなかったのだ。
輪廻転生は、あってもなくてもいい。
まだそれを信じていた方が楽なときは、信じていて構わない。
だけど、輪廻転生があろうがなかろうが、たった”今”、最初から内側に鎮座し、差し出されている「天国」を受け入れるだけ。
そして、その受容に至るのには、「自我」のすみずみを隠さずに淡々を見つめて、解釈やジャッジなど放っておき、ただ味わいきって、「静けさ」で愛でる。
思考の完全な逆転。
それは夢だった。
優しい夢だった。
輪廻転生という長くて一瞬の夢。
「静けさ」はすべてを包んでいる。
この「天国」に住まわっている。
・・・
二十四.輪廻転生はあるか
究極の意味では、輪廻転生は不可能である。
過去も未来も存在しないのだから、一度であろうと、何度も繰り返してであろうと、肉体として生まれてくるという概念には何の意味もない。
それならば、真の意味においては、輪廻転生は真実ではあり得ない。
私たちの唯一の問いは、「この概念は助けになるかどうか」でなければならない。
そしてそれはもちろん、それが何のために使われるかということにかかっている。
もし生命の永遠性の認識を強めるために用いられるなら、それは確かに助けになる。
輪廻転生に関するそれ以外の問いは、道を照らすのに役立つだろうか。
他の信念と同様、それもひどく誤用される可能性がある。
少なくとも、そうした誤用は、過去への没頭ともたらし、さらには過去にまつわるプライドすらもたらすかもしれない。
最悪の場合は、現在に無気力を引き起こす。
その中間においては、夥しい種類の愚かなことが起こり得る。
輪廻転生は、いかなる状況下においても、今、対処すべき問題とはならない。
仮にそれが、個人が今直面しているいくつかの困難の遠因であるとしても、彼の課題は依然として、今、それらから脱出することだけである。
仮に彼が未来の人生のための基礎を築きつつあるのだとしても、自分の救済のために何かを為し得るのは、やはり今だけである。
ある者たちにとっては、この概念が慰めになることもある。
そしてそれが彼らを元気づけるのなら、そこに価値があることは自明である。
しかし、救済への道は、輪廻転生を信じる者によっても信じない者によっても見出されることは確かである。
したがって、この概念をこのカリキュラムに不可欠なものと見なすことはできない。
現在を過去の観点から見ることには、いかなるものであれ、常に何らかの善を含んでいる。
私たちの目的にとっては、輪廻転生に関してどんな明確な立場をとることも助けにならない。
神の教師は、それを信じる者たちにも信じない者たちにも、同じように助けにならなければならない。
もし明確な立場をとることが彼に義務づけられていたとしたら、それはただ、彼の有用性のみならず、彼自身による決断をも制限するだけとなる。
私たちのコースは、誰もが自分の正式な信念に関わりなく受け入れることのできるもの以外は、関心の対象としない。
神の教師は自分の自我に対処するだけで手一杯であり、分派的論争を加えて彼の負担を重くすることは、叡智の為すことではない。
また、自分が長い間信じてきたことを同じく提唱しているというだけの理由で、このコースを時期尚早に受け入れることも、彼のためにはならない。
このコースが思考の完全なる逆転を目指しているということは、いくら強調してもしすぎることはない。
これがついに達成されたときには、輪廻転生の妥当性といった議論は無意味となる。
それまでの間は、それらは単に論争を招くだけのものとなりやすい。
したがって、神の教師はそのような問題のすべてから離れているほうが賢明である。
なぜなら、彼には、そうした問題とは別に、教え、学ぶべきことがたくさんあるからである。
理論的な論争に時間を費やすのは無駄であり、時間をその本来の目的から逸脱して浪費することになるということを、彼は学び、かつ教えなければならない。
どんな概念や信念についてであれ、そこに助けになる側面があるなら、彼はそれについて教えてもらえるだろう。
また、それをどのように使うべきかも、教えられるだろう。
それ以上の何を、彼が知る必要があるだろう。
これは、神の教師自身が輪廻転生を信じたり、それを信じる者たちとそれについて論じたりしてはならないという意味なのだろうか。
答えは、もちろん否である!
彼が輪廻転生を信じているのなら、内なる教師から助言されたのでない限り、その信念を放棄するのは間違いである。
そしてそのようなことは、まずないだろう。
彼がその信念を、生徒や自分自身の進歩にとって有害な形で誤用していると忠告されることはあるかもしれない。
その場合には、再解釈が必要であるから、それを勧められるだろう。
ただし、認識されるべきことのすべては、誕生が始まりだったのではなく死が終わりなのでもない、ということだけである。
だが、この認識さえも初心者には要求されていない。
彼はただ、自分が知っていることは必ずしも学ぶべきすべてではない、という考えを受け入れる必要があるだけである。
彼の旅は始まったばかりである。
このコースが強調することは常に同じである。
すなわち、今この瞬間に、完全な救済があなたに差し出されており、今この瞬間に、あなたはそれを受け入れることができる、ということである。
それは今も、あなたの唯一の責務である。
贖罪とは、過去からの完全な脱出や未来への完全な無関心と同一視できるものである。
天国はここにある。
それ以外の場合は存在しない。
天国は今である。
それ以外の時間は存在しない。
このことに導いていかない教えはどれも、神の教師の関心の対象ではない。
すべての信念は、正しく解釈されたなら、このことを指し示すだろう。
この意味において、あらゆる信念を真理とするのはその有用性だということができる。
進歩へと導く信念はすべて、尊ばれなければならない。
これが、このコースが要求する唯一の評価基準である。
これ以上は必要ない。