【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

二十五.「心霊的」能力は望ましいことであるか

特別という誘惑は、どこまでもやってくる。

 

それでも、特別を訴えることの息苦しさに、素直に敏感になったから、すぐに離れられるようになった。

 

自我の世界に興味がなくなったことで、静かになり、冷静になった。

 

自我の世界に興味がないので、良い悪いや、損得、優劣の感覚も失せた。

 

世界への裁きも失せた。

 

それよりも、わかち合いたい。

 

わからないまんま、くつろぐことを祝福し合いたい。

 

自由だ!

 

世界に囚われていないと、こんなにも。

 

自我の世界を通して、ただただ被造物の祝福ができること。

 

ありがたい。

 

静けさと共にある。

 

祝福と共にある。

 

限定的な欲求が失せ、圧倒的な生命がある。

・・・

二十五.「心霊的」能力は望ましいことであるか

 

この問いに対する答えは、前項の場合と非常によく似ている。

もちろん「不自然な」力といったものはなく、存在しない力を作り出そうとすることは、明らかに魔術に頼ることである。

しかしまた、誰にでも自分で自覚していない数多くの能力が備わっていることも、同様に明白である。

彼の自覚が増すにつれて、自分でも驚くような能力が発現されてゆくこともある。

しかし、彼にできることのどれをとってみても、彼自身が真に誰であるかを思い出すときの栄光に満ちた驚きに、わずかでも比べられるものはない。

彼の学びと努力のすべてを、このひとつの大いなる最後の驚きへと向かわせるなら、彼は道すがら遭遇する諸々の小さな驚きによって遅れをとることに甘んじたりはしないだろう。

 

もちろん、このコースと明らかに調和している「心霊的」能力も数多くある。

コミュニケーションは、世界が認識している狭い範囲の伝達経路に限定されてはいない。

そうであったなら、救済を教えようとすることには、ほどんど意味がなくなるだろう。

それを教えることも不可能となるだろう。

この世界がコミュニケーションに課している制限が、聖霊を直接体験することを阻む主要な防壁となっているが、聖霊の臨在は常にここにあり、聞こうとさえすればその声を聞くことができる。

こうした制限は、恐れによって課せられている。

というのも、制限がなければ、世界中のあらゆる分離した場所を取り囲んでいる壁は、聖霊の声の聖なる響きの前で崩れ落ちるからである。

いかなる方法によってであれ、こうした制限を超越する者は、ますます自然になっていくだけれある。

彼は何一つ特別なことをしているのではなく、彼の達成の中にいかなる魔術もない。

 

道を進むにつれて身につくかもしれない新しい能力のように見えるものは、非常に役立つものともなり得る。

聖霊に捧げられて、聖霊の指示のもとに使用されるなら、それらは価値ある教具となる。

このことと、それらの能力がどのように生じているかといった問題は、無関係である。

考慮すべき唯一の重要な点は、それらがどのように使用されるかということだけである。

そうした能力自体を最終目的とするならば、それらがどのように行われようと、進歩を遅らせる。

また、それらの価値も、過去に為された業績や、「目に見えない」ものとの珍しい交信や、神からの「特別な」寵愛などといったことを証明することの中にあるのではない。

神は特別扱いをしない。

また誰も、すべての者が使えないような力をもってはいない。

ただ魔術の妙技より、特別な力が「実証」されるだけである。

 

真正のものであれば、欺くために用いられることはない。

聖霊には欺く能力はなく、真の能力しか使うことができない。

魔術のために使われるものは、聖霊には無用である。

一方、聖霊が使うものは、魔術のためには使用できない。

とはいえ、珍しい能力というものには独特の魅力があり、それは不思議に魅惑的なものとなり得る。

ここには、聖霊が望み、必要としている強さがある。

だが、自我はこの同じ強さの中に、自分自身を称賛する機会を見る。

強さが弱さに変わると、まさに悲劇となる。

だが、聖霊に捧げられなかったものは、弱さに捧げるしかない。

なぜなら、愛に与えずにおかれたものは恐れに与えられ、その結果において恐ろしいものとなるからである。

 

この世界の物質的なものごとにはもはや価値を認めなくなった者たちでさえ、依然として「心霊的」能力には欺かれることがある。

世界の物質的な贈り物への執着がなくなったので、自我は深刻に脅かされている。

それでも自我には、この新しい誘惑のもとで勢いを盛り返し、策略により力を取り戻すだけの強さが残っていることがある。

ここでも自我の防衛がとりわけ巧妙というわけではないにもかかわらず、多くの者たちはそれを見抜いてこなかった。

だが、欺かれたいという願望が残っていれば、欺くことは容易となる。

そうなると、その「力」はもはや真の能力ではなくなり、信頼して使うことはできない。

そのような個人は、その「力」の目的について心を変えない限り、ほぼ必然的に、不確かな自分の「力」を、さらなる欺瞞によって支えようとするだろう。

 

人が発現させる能力は、すべて善きことにつながる可能性をもっている。

このことに例外はない。

そして、その力が珍しくて意外なものであればあるほど、その潜在的有用性も大きくなる。

救済はすべての能力を必要としている。

世界が破壊しょうとするものを、聖霊は回復させようとするからである。

「心霊的」能力が悪魔に呼びかけるために使われたこともあるが、それは単に、自我を強めるために使われたという意味である。

だが、ここにはまた、聖霊のために働くなら希望と癒しのための一つの大いなる経路となるものがある。

「心霊的」能力を発現させた者たちは、ただ自分の心に課していた制限のいくつかが取り外されるままにしただけである。

増大した自由を幽閉の強化のために用いるなら、彼らは自分自身にさらなる制限を課すことにしかならない。

聖霊はこうした贈り物を必要としている。

それを聖霊に、そして聖霊だけに差し出す者は、キリストの感謝を胸に抱いて進み、キリストの神聖な視覚も遠からず訪れるだろう。