何も複雑なことはなかった。
リラックス。
何を求めていた?
どこまでもくつろいでいることだ。
くつろぐと、瑞々しさにつつまれる。
それが、またわたしをくつろがせる。
これ以上なにがあるだろう。
何も必要ない。
誰とでも、何とでも、その間というものはない。
ただただくつろぎがある。
これ以上なにがあるだろう。
十分だ。
・・・
二十六.直接、神に到達することはできるか
たしかに、直接、神に到達することはできる。
神と神の子の間に距離はないからである。
神についての自覚はすべての者の記憶の中にあり、神の言葉はすべての者の胸に書き込まれている。
だが、この自覚と記憶は、真理に対する防壁のすべてが取り除かれたところでのみ、認識の識閾を超えて現れることが可能である。
こうした状態に達した者が何人いるだろうか。
それならば、ここにこそ、神の教師たちの役割がある。
彼ら自身もまだ必要な理解を達成していないが、彼らは他の者たちとつながった。
このことが、彼らを世界から区別している。
そしてこのことが、彼らと共に他の者たちも世界を去ることを可能にする。
ひとりでは、彼らは無である。
しかし、彼らがつながり合うことの中に、神の力がある。
直接、神に到達し、この世界の限界の痕跡を一つも保持することなく、自分自身のアイデンティティーを完全に思い出した者たちはいる。
彼らは、教師たちの教師とでも呼ぶことができる。
なぜなら、彼らはもはや目に見えないが、今でもその姿を思い浮かべて頼りにすることができるからである。
そして彼らは、姿を現すことが助けになる時や場所で、姿を現すだろう。
そのような出現を怖がる者たちには、彼らの想念を与えてくれる。
彼らに呼びかけて、無駄に終わることはない。
また、彼らは、誰のことをも気づいている。
すべての必要についても知っており、すべての間違いは彼らに認識され、見過ごされている。
いずれ、このことが理解されるときがくるだろう。
それまでの間、助けを求めて彼らを頼りにし、ただ彼らの名のみによってすべてのことを求める神の教師たちに対し、彼らは自らの贈り物のすべてを与える。
ときには、神の教師がつかの間、神との直接の融合を体験することはあるかもしれない。
この世界では、それが持続することはほとんど不可能である。
そうしたことは、おそらく、多大な専心と献身の後に勝ち取ることはでき、その後、地上での生活のかなりの時間、それを維持することもできるだろう。
しかしこれは実に稀なことであるから、現実的なゴールと見なすことはできない。
もしそれが起こるなら、それでかまわない。
起こらなければ、それでもかまわない。
この世界のすべての状態は幻想でしかあり得ない。
もし神に直接到達しているという自覚が続いていたなら、肉体は長くは維持されないだろう。後に残る人々に助けを差し伸べるためにのみ肉体を横たえた者たちは、実にわずかしかいない。
そして彼らが必要としているのは、依然として束縛と眠りの中にいる協力者たちである。
この協力者たちが目覚めることにより、神の声が、聞こえるものとなるからである。
それならば、いくつもの制限があるからといって絶望してはならない。
あなたの機能は、それらから脱出することであって、それらをもたずにいることではない。
もし苦しんでいる者たちに耳を傾けてもらいたいなら、あなたは彼らの言葉で話さなければならない。
もし救済者になろうとするのなら、何から脱出する必要があるのかを理解しなければならない。
救済とは理論上のものではない。
問題をよく見て、その答えを求め、答えが訪れたときには、それを受け入れなさい。
また、その訪れを長く待たされることもないだろう。
あなたが受け入れることのできる助けはすべて与えられ、あなたが必要をしているものの一つでも満たされないものはない。
それならば、あなたに達成できる準備ができていないゴールについては、気にかけずにいよう。
神はあなたが今居るところであなたを受け入れ、歓迎する。
あなたに必要なのはこれだけだというのに、これ以上の何を望むことができるだろう。