「肉体」に対する意味が変わる。
全体がわたしだった。
たまたま、夢の中では、一番近くだと認識しているものとしての濃さが「肉体」を演出していたのだ。
そして、全体側から言えば、愛に濃さを設けていたのだった。
わたしという特別性、罪意識が解かれ、完全に全体に溶ければ、濃いも薄いもない。
だけど、今はまだ、わずかだけど濃さを握っているだけ。
その濃さを、そのまんま赦して、そのまんま、くつろぐと、それは一定、平たく、均一になる。
「肉体」も周りの人や風景や形あるものも、すべて同じ、ひと連なり。
「生命」だけが広がっている。
「愛」の延長だけがある。
ただ「くつろぎ」が広がっている。
ただ「祝福」が広がっている。
「くつろぎ」にくつろいでいる。
・・・
二十七.死とは何か
死とは、すべての幻想を派生させる中心的な夢である。
生まれてから年をとり、活力を失って最後には死んでいくものが生命だと考えるのは、狂気ではないだろうか。
私たちは以前にもこの質問をしたことがあるが、今、もう少し丁寧に考えてみる必要がある。
この世界のすべてのものはただ死ぬだけのために生まれてくるというのが、この世界における一つの不動にして不変なる信念である。
これは「自然の理」であり、問題視するべきことではなく、生命の「自然な」法則として受け入れるべきことだと見なされている。
周期的に移り変わるもの、変化する不確かなもの、頼りにならない不安定なもの、一定の軌道の上を一定の形で盛衰するものーーーこうしたもののすべてが、神の意志であるとされている。
しかも、慈悲深い創造主がこうしたことを意志することができるのかと尋ねる者は、ひとりもいない。
このような宇宙を神が創造したものとして知覚するなら、そのような神を、愛に満ちた存在と考えるのは不可能だろう。
というのも、すべてのものは過ぎ去り、灰燼と化し、落胆や絶望のちに終わると定めたような存在については、恐れる以外にないからである。
その存在はあなたの小さな生命を一本の糸でつなぎ止めてはいるが、その糸は今日にも情け容赦なく断ち切られるかもしれない。
あるいは、待ってもらえるとしても、いずれ終わる時はくるのは確実である。
そのような神を愛する者は、愛というものを知らない。
なぜなら、彼は生命が実在するものであることを否定したからである。
死が生命の象徴となっている。
彼の世界は今や戦場と化し、矛盾が君臨し、対立するもの同士が果てしない戦いを繰り広げている。
死が存在するところに、平安はあり得ない。
死とは、神に対する恐れの象徴である。
その概念の中では、神の愛は抹消され、その概念は、あたかも太陽を遮るために掲げられた盾のように、神の愛を自覚させずに保つ。
この象徴の陰鬱さだけで、それが神と共存できないことを示すに充分である。
それは、荒廃の腕に抱かれて「葬られている」神の子の肖像を掲げ、そこではうじ虫が、彼を食いつくすことで少しでも長らえようと待ちかまえている。
しかし、うじ虫もまた同じく確実に滅ぼされる運命にある。
そのように、すべてのものは死によって生きている。
むさぼり食うことが、自然界の「生命の法則」である。
そこでは神は狂っており、恐れだけが実在するということになる。
死にゆくものの一部でありながらも、死すものから離れて生き続ける部分が存在するという奇妙な信念は、愛ある神を宣言することにも、信頼の根拠を建て直すことにもならない。
もし何にとってであれ死というものが実在するのなら、生命は存在しないことになる。
死は生命を否定するものである。
だが生命に実在性があるのなら、死が否定される。
ここに妥協の余地はない。
怖れの神か、愛の神か、どちらかしかあり得ない。
世界は無数の妥協を試みており、これからも幾度となく妥協しようとするだろう。
そのどれ一つとして、神の教師たちには受け入れられないものである。
なぜなら、そのどれ一つとして、神に受け入れならないものだからである。
神は恐れを作り出さなかったので、死も作り出さなかった。
そのどちらも、神にとっては等しく無意味である。
死の「実在性」は、神の子は肉体であるという信念に堅く根ざしている。
そして、もし神が肉体を創造したというのなら、死はまさしく実在するものとなる。
ただし、神は愛に満ちた存在ではないことになる。
実相世界の知覚と幻想の世界の知覚との間にある対照性が、これ以上に際立って明白になる地点はない。
神が愛であるなら、死とはまさに神の死である。
そして今や、神ご自身の創造物は神を恐れて立ちすくまずにはいられない。
神は父ではなく破壊者となる。
創造主ではなく復讐者となる。
神の想念はおぞましく、神の姿は恐ろしきものとなる。
そして神の被造物たちを見ることは、死ぬこととなる。
「そして、最後に亡ぼされるは死なり」。
これは、もちろんその通りである!
死という概念がなければ、世界は存在しない。
すべての夢は、この夢と共に終わる。
これが、救済の最後のゴールである。
すなわち、すべての幻想の終わりである。
そしてすべての幻想は死の中で生まれる。
死から生まれていながら、生命をもつことができるものなどあるだろうか。
しかしまた、神から生まれていながら、死ぬことができるものなどあるだろうか。
死にしがみつきながらもなお、愛を実在するものと考えようとする虚しい試みの中で、世界が助長している矛盾や妥協や儀式といったものは、心が伴わない魔術であり、何の効果もなく無意味なものである。
神は在るのみである。
そして、神の中では、創造されたすべてのものは永遠不変のはずである。
そうでないとするなら、神と正反対のものが存在することになり、恐れは愛と同じように実在することになるということが、あなたにはわからないだろうか。
神の教師よ、あなたの唯一の課題は、次のように述べることができる。
死が関与している妥協を、一つでも受け入れてはならない。
残虐性を信じてはならないし、攻撃によりあなたから真理が隠されることのないようにしなければならない。
死ぬように見えるものは、誤って知覚されて幻想のもとに運ばれただけのものである。
今や、幻想が真理へと運ばれるに任せることがあなたに課せられた任務となる。
移り変わる形の「実在性」らしきものによって欺かれないという態度を、断固として貫きなさい。
真理は不動であって、揺らぐこともなければ、死や消滅へと沈んでいくこともない。
そして、死の終わりとは何だろうか。
それはただ、神の子は今もこれからも永遠に無罪だと悟ることである。
これ以外の何ものでもない。
しかし、これ以下のものでもないということを、自分に忘れさせてはならない。