何からも区別されていない。
「生命」だけがある。
「身体」はコミュニケーションの媒体として在る。
それは「空」をわかち合う。
「生命」をわかち合う。
「空」はくつろぎ。
愛はくつろぎ。
・・・
二十八.復活とは何か
ごく簡単に言って、復活とは死を打ち負かすこと、または克服することである。
それは再覚醒あるいは再生であり、世界の意味について心を変えることである。
世界の目的に関して、聖霊の解釈を受け入れることであり、自分自身に贖罪を受け入れることである。
それは不幸の夢の終わりであり、聖霊の最後の夢を喜んで自覚することである。
そして神からの贈り物を認識することである。
それは、コミュニケーション以外の機能をもたない肉体が、その機能を完璧に果たすという夢である。
またそれは、学びが終わるレッスンである。
なぜなら、このレッスンをもって学びは完了し、そこを超えて進むことになるからである。
そしてそれは、神に最後の一歩を踏み出してほしいと求める招待である。
それ以外のあらゆる目的や興味や願望や懸念を、一つ残らず放棄することである。
それは、父を求める神の子の単一の欲求である。
復活とは生命の肯定であるから、死の否定である。
そのようにして、この世界のすべての思考が全面的に逆転する。
今や生命が救済であると認識され、いかなる種類の苦痛や不幸も、地獄と知覚される。
愛はもはや恐れられることはなくなり、喜んで迎えられる。
偶像は消え失せた。
そして、神についての記憶が、世界中で、何の妨げもなく輝いている。
生けるもの一切の中にキリストの顔が見られ、何一つ、赦しの光から離れて闇の中に閉ざされているものはない。
地上には、もはやどんな悲しみも残っていない。
そこには天国のよろこびが訪れている。
ここでカリキュラムは終わる。
ここから先は、何の指導も必要ない。
視覚はすっかり訂正され、すべての間違いは取り消されている。
攻撃は無意味であり、平安が訪れている。
カリキュラムのゴールは達成された。
想念は天国へと向かい、地獄から離れる。
すべての切望は満たされている。
なぜなら、未回答または不完全なまま残されているものなど、何もないからである。
最後の幻想が世界中に広がり、すべてのものごとを赦し、すべての攻撃と入れ替わる。
完全な逆転が達成された。
神の言葉と矛盾するものは何一つ残っていない。
真理に対立するものは何もない。
そして今、ついに真理が訪れることができる。
そのような世界に入ってきて、それを包み込んでほしいと頼まれるとき、真理は何と速やかにやってくることだろう!
すべての生ける者たちの胸は静まり、一つの深い期待でときめいている。
今や、永遠なるものの時が間近となっているからである。
死は存在しない。
神の子は自由である。
そして彼の自由の中に、恐れの終わりがある。
病んだ幻想や、恐れの夢や、宇宙についての誤った知覚をかくまうための隠れ家は、今この地上に一つも残っていない。
すべてのものごとは光の中で見られ、その光の中で、それらの目的は変容し、理解される。
そして神の子供たちである私たちは塵の中から立ち上がり、自分たちの完璧な無罪性を見る。
天国の歌が世界中に響き渡り、世界は引き上げられ、真理へと運ばれる。
今や、区別というものはなくなっている。
差異は消滅し、愛がそれ自体を見つめている。
これ以上どんな視覚が必要だろうか。
心眼に達成できる何が残っているだろうか。
私たちはキリストの顔や、彼の無罪性や愛を、あらゆる形態の背後に、そしてあらゆる目的の向こうに見た。
キリストの聖性が私たちを確かに自由にしたのだから、私たちは神聖である!
そして、私たちはキリストの聖性を自分のものとしてありのままに受け入れる。
私たちはいつまでも永遠に、神に創造されたままであり続け、神の意志が自分たちの意志となることだけを願う。
別の意志という幻想は消え去った。
目的の一致を見出したからである。
これらのことが私たち全員を待ち受けている。
しかし、私たちにはまだそれらを喜びとともに迎える準備はできていない。
心が邪悪な夢に囚われている間は、地獄という想念は実在のものとなっている。
神の教師たちには、眠っている者たちの心を目覚めさせ、彼らの見ている夢と入れ替わるキリストの顔の光景をそこに見るというゴールがある。
殺害の想念は祝福を入れ替えられる。
裁きは放棄され、審判を自らの機能とする存在に委ねられる。
そして聖霊の最後の審判において、聖なる神の子についての真理が回復される。
神の子は、神の言葉を聞き、その意味を理解したので、救われている。
神の声に真理を宣言してもらったので、神の子は自由である。
以前に彼が十字架につけようとしたすべての者たちが、彼の傍らで共に復活し、彼は彼らとともに神に出会う準備をする。