声高々に主張するからといって「自我」には何の力もない。
実体がない。
どんなにそれが重要に見えても、どんなにそれに価値があるように演出しても。
その喧噪に愛の泣き叫びを感じたら、もう素直に降参するだけ。
これまで、間違ったところ、あるいは限定されたものから視線を離さずにいただけ。
そして、これからは、ただ見て、見過ごすのみ。
知覚を超えられないわたしたちは、見て、見過ごして、空にあずける。
祝福が立ち起こるままに。
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用語の解説 1.心ー霊
心という言葉は、創造エネルギーを供給して霊を活性化させる主体を表すために使われている。
この言葉が太文字で表記されている場合は、神またはキリストを指している。(神の心、キリストの心など。)
霊とは、神がご自身に似せて創造した神の想念である。
統一された霊とは、神のひとり子、すなわち、キリストのことである。
この世界では、心が分裂しているがゆえに神の子らが分離しているように見える。
また、彼らの心がつながり合っているようにも見えない。
こうした幻想状態においては、「個人の心」という概念に意味があるように見える。
したがって、このコースでは、心はあたかも霊と自我という二つの部分があるかのように描写されている。
霊とは、聖霊を通して今も神と接触を保っている部分であり、聖霊はこの部分に宿っているが、もう一方の部分も見ている。
「魂」という言葉は、非常に論争を引き起こしやすいため、聖霊からの直接の引用以外では使われていない。
とはいえ、それは神に属するものであるから永遠であって一度も生まれたことのないものだと理解するなら、「霊」の同義語と言える。
心のもう一方の部分は、全面的に幻想であり、ただ幻想を作り出すのみである。
霊は創造するための潜在力を維持してはいるが、神の意志でもある霊の意志は、心が統一されていないうちは幽閉されているように見える。
創造は神の意志であるから、衰えることなく続いている。
この意志は常に統一されており、したがってこの世界においては意味をもたない。
それには対極もなければ、程度の差もない。
心はどちらの声に耳を傾けるかによって、正しいものにも、間違ったものにもなる。
正しい心の状態は聖霊に耳を傾け、この世界を赦し、キリストの心眼を通して、この世界に代わるものとしての実相世界を見る。
これが最終の心眼であり、最後の知覚であり、この状態において、神ご自身が最後の一歩を踏み出す。
ここで、時間と幻想が共に終焉を迎える。
間違った心の状態は自我に耳を傾けて幻想を作り出し、罪を知覚して怒りを正当化し、罪悪や病気や死を実在のものと見なす。
こうした世界も実相世界も、両方とも幻想である。
なぜなら、正しい心の状態は単に、一度も起こったことのないものを看過するだけ、すなわち赦すだけだからである。
したがって、それは神の意志とひとつの意志をもつキリストの心の一なる心の心の状態ではない。
この世界においては、残されている唯一の自由は選択の自由であり、それは常に二つの選択肢の間で。すなわち、二つの声の間で為される選択である。
意志は、いかなるレベルにおいても知覚に介入することはなく、選択にはまったく関与しない。
意識は受け取るための機構であり、上もしくは下から、すなわち、聖霊もしくが自我から、メッセージを受け取っている。
意識には複数のレベルがあり、自覚がかなり劇的に変化することはあり得るが、知覚の領域を超えることはできない。
最も高いレベルでは、意識は、実相世界を自覚するようになり、それを一層良く自覚するよう訓練されることが可能である。
しかし、それが複数のレベルをもっていて訓練されることが可能だという事実そのものが、意識は知識に達することはできないことを実証している。