赦す。
「見て、見過ごす」。
「地獄を地獄と見る」。
そして地獄は幻想だと知っていることを認める。
反応は不可能だった。
世界に反応できないのは、それが幻だから。
この世界で名づけられないもの。
それだけがリアル。
・・・
用語の解説 2.自我ー奇跡
幻想は永続しない。
その死滅は確実であり、このことのみが、幻想の世界において確実なことである。
このことのゆえに、それが自我の世界なのである。
自我とは何だろうか。
それは、本当のあなたとは何であるかを描いた夢にすぎない。
自分が創造主から分離しているという想念であり、創造主が創造しなかったものになりたいという願望である。
それは狂気の沙汰であり、まったく実相などではない。
名なきものに付けられた名前にすぎない。
不可能な象徴であり、存在しない選択肢を選ぶ選択である。
私たちがそれに名前を付けているのは、それは「作り出されたものに不滅性がある」という往古の想念でしかないということを、自分が理解できるよう助けるためにすぎない。
しかし、こうした想念から生じることができるのは、すべての夢と同じく死によって終わるだけの夢のみではないだろうか。
自我とは何だろうか。
何ものかに見える形をした虚無である。
形態の世界では、自我のみが実在するように見えるので、自我を否定することはできない。
だが、神に創造されたままの神の子が、形態の中や、形態の世界の中に住むことができるだろうか。
自我を定義して、それがどのようにして生じたのか説明してほしいと求める者は、自我が実在すると思っている者でしかあり得ない。
そして彼は、定義することによって、自我をそのようなものに見せかける言葉の背後に、自我の幻想性を確実に隠蔽しておこうとする。
嘘を真実にするのに役立つ嘘の定義などというものはない。
また、嘘がうまく隠しおおせる真理などというものもあり得ない。
自我の非実在性が言葉によって否定されることはなく、自我の特性に形があるかに見えるからといって、その意味が明確になるわけでもない。
定義しようのないものを、誰が定義できるだろう。
そうは言っても、ここにさえも答えはある。
私たちは自我とは何かを実際に定義することはできないが、自我ではないものについてであれば、語ることができる。
そしてそれは、私たちに実にはっきりと示されている。
そこからであれば、自我というものの全容を演繹できる。
その対極にあるものを見なさい。
そうすれば、唯一の有意義な答えが見えるようになる。
起源、結果、所産などのあらゆる点で自我の対極にあるものを、私たちは奇跡と呼ぶ。
そしてそこに、この世界の中にあって自我ではないもののすべてを見出す。
ここに自我の対極をなすものがあり、ここにおいてのみ、私たちは自我とは何であったかを見る。
なぜなら、そこからは、自我が行ったように思えたことの全容が見え、原因とその結果は今も同一であるはずだからである。
かって闇があったところに、今、私たちは光を見ている。
自我とは何か。
かって闇であったもののことである。
自我はどこにあるのか。
闇があったところにある。
それは今は何であり、どこで見つかるのか。
それは無であり、どこにも見つからない。
今では光が訪れている。
その対極をなすものは跡形もなく消え去った。
かって悪があったところに、今は聖性がある。
自我とは何か。
かって悪であったもののことである。
自我はどこにあるのか。
夢を見ていた間は本当のことに思えただけの、悪の夢の中にある。
かって十字架刑があった場所に、神の子が立っている。
自我とは何か。
それを問う必要のある者などいるだろうか。
自我はどこにあるのか。
夢が過ぎ去った今、幻想を探し求める必要のなる者などいるだろうか。
奇跡とは何か。
奇跡もまた、夢である。
しかし、この夢のすべての側面を見るなら、あなたはもはや問うことはしないだろう。
柔和さの中を歩むあなたの前に広がる優しい世界を見なさい。
あなたが旅する道で出会う助力者たちが、天国の確実さと平安の確かさに包まれた幸福な者たちであるのを、見なさい。
そしてまた、ついにあなたが後にし、通り過ぎたものも、一瞬だけ振り返って見てみなさい。
それが自我であった。
あの残酷な憎悪、復讐の必要と苦痛の叫び、死ぬことへの恐れと殺したい衝動、同胞なき幻想と全宇宙の中でひとりきりに見えた自己、こうしたすべてに自我があった。
あなた自身についてのこの恐ろしい思い違いを、奇跡が、あたかも愛情深い母親がわが子に子守歌を歌うように優しく訂正する。
あなたが聞きたいのは、このような歌ではないだろうか。
それが、あなたが尋ねようと思ったことすべてに答え、その質問さえも無意味にするのではないだろうか。
あなたの質問は神の声を沈黙させるために作り出されており、それには答えがない。
神の声は誰にでも一つの質問をするだけである。
「あなたには、私が世界を救う手助けをする準備がもうできているだろうか」と。
この問いを、自我とは何かと問う代わりに尋ねなさい。
そうすればあなたは、自我が作り出した世界がにわかに輝きに包まれるのをみるだろう。
今や、誰に対しても奇跡が与えずにおかれることはない。
世界は、あなたが「世界」だと思っていたものから救われている。
そして、ありのままの世界は、まったく咎められておらず、まったく清らかなものである。
奇跡は赦し、自我は断罪する。
どちらも、これ以外の定義を必要としない。
だが、これ以上に確かで、これ以上に救済の本質に合致している定義があるだろうか。
ここには問題と答えがあり、両者がついて揃ったからには、どちらを選ぶべきがは明らかである。
地獄が地獄だと認識されたとき、それを選ぶ者がいるだろうか。
そして、道のりは短く、自分のゴールは天国であると理解できるときに、あと少しの間進み続けることを嫌がる者がいるだろうか。