わたしたちがゆだねたままでいいのは、わからないままでいいのは、それ以外なにも必要ないから。
見ている世界がなにもないのなら、そして身体でもないのなら、そして状態でもないのなら、もう打つ手はないし、打つ手など必要ないのだ。
そのことを認めるのが本当に難しかったけど、どうしたってお手上げなわけで、そういうわけで、もう全体性へと落ちるだけだ。
神の祭壇という全体性へ落ちる。
これだけ。
そして、アメージング。
恵みの中へ。
・・・
用語の解説 4.真の知覚ー知識
あなたの見ている世界は、世界のように見える幻想である。
神はそれを創造しなかった。
なぜなら、神が創造するものは、神ご自身と同じく永遠ならざるを得ないからである。
ところが、あなたが見ている世界には、永遠に続いていくものは何もない。
いくつかのものは、他のものよりも少し長く時間の中に存続するだろう。
しかし、いずれは、目に見えるすべてのものが終わりを迎える時がくる。
したがって、肉体の目は実相世界を見ることを可能にするような手段ではない。
なぜなら、肉体が見ている幻想は、現実のように見える幻想をさらに増やすことにならざるを得ないからである。
そして、確かにそのようになる。
というのも、肉体の目が見るすべてのものは持続しないばかりか、罪や罪悪の想念を助長するものとなるからである。
一方、神が創造したものはすべて、永遠に罪はなく、したがって、永遠に罪とは無縁である。
知識は偽りの知覚の治療法ではない。
それは別のレベルにあり、両者は決して出合うことがない。
偽りの知覚に対する唯一の可能な訂正は、真の知覚でなければならない。
それは永続しない。
しかし、続いている間は、癒されるために訪れる。
というのも、真の知覚とは、数多くの名前で呼ばれる治療法だからである。
赦し、救済、贖罪、真の知覚、これらはみな同じものである。
それらは一つの始まりであり、最後にはそれら自体をはるかに超えた一体性へと導く。
真の知覚が、世界を罪から救い出す手段である。
なぜなら、罪は存在していないからである。
そして、真の知覚を見るのは、このことである。
世界はキリストの顔の前に、障壁のように立ちはだかっている。
しかし真の知覚がそこに見るのは薄いベール以上のものではなく、それはまったく楽々と剥ぎ取ることができるので、ほんの一瞬そこにあるだけのものである。
ついにそれが、ただありのままに見られる。
そして今や、それは消え失せないわけにはいかない。
なぜなら、今ではそこにきれいに準備された空白の場所があるからである。
破壊が知覚されていたところにキリストの顔が現れ、その瞬間、世界は忘れ去られる。
そして、虚無から生じた世界が虚無の中へと舞い戻るとき、時間も永久に終わりを告げる。
世界は、赦されたなら存続できない。
それは肉体たちの住居であった。
しかし赦しは肉体たちを通り越して見る。
これが赦しの聖性であり、このようにしてそれは癒すのである。
肉体の世界は罪の世界である。
肉体があってこそ罪も可能となるからである。
罪からは確実に罪悪感が生じ、それと同じく確実に、赦しはすべての罪悪感を取り去る。
そしてすべての罪悪感がなくなったなら、分離した世界をそのままそこに保つ何が残っているだろう。
そのときには場所も時間と一緒に消え去っている。
世界を実在するかに見せているのは、肉体だけである。
なぜなら、分離したものである肉体が、分離が不可能なところにとどまることはできないからである。
赦しは肉体を見ないので、分離が不可能だと証明する。
そのときにあなたが看過するものは、もはやあなたには理解不可能なものとなっているが、かってのあなたはその存在を確信していたのである。
真の知覚がもたらす変化とは次の通りである。
外に投影されていたものが内側に見られ、そこで赦しがそれを消滅させる。
というのも、そこに神の子への祭壇が据えられ、そこで父が思い出されるからである。
ここですべての幻想は真理のもとへ運ばれ、その祭壇の上に置かれる。
外側に見えているものは、赦しの及ばないままにならざるを得ない。
なぜなら、それは永遠に罪深いものに見えるからである。
罪が外にあると見なされているうちは、どこに希望があるだろう。
罪悪感にとって、どんな治療法が期待できるというのだろう。
しかしそれがあなたの心の内側に見られたなら、罪悪感と赦しは一瞬の間、一つの祭壇の上に隣り合わせで一緒に置かれることになる。
そこでついに、病気とその単一の治療法が結びつき、一なる癒しの輝きとなる。
神がご自身のものを取り戻すために訪れたのである。
こうして赦しは完了する。
そして今や、不変にして確実で、清らかにして完全に理解可能な神の知識が、自らの王国に入ってくる。
知覚は、偽りのものも真のものも、同じように過ぎ去っている。
赦しも、その任務を終えたので、過ぎ去っている。
そして肉体も、神の子への祭壇の燦然と輝く光の中で、消失している。
神はその祭壇が彼のものであると同時に、ご自身のものでもあることを知っている。
そしてここで、父と子はひとつにつながる。
なぜなら、ここでキリストの顔がその光で時間の最後の一瞬を消し去り、もはや、世界の最後の知覚には目的も原因もなくなっているからである。
ついに神についての記憶がよみがえったところには、旅もなければ、罪への信念もなく、壁も肉体もない。
罪悪感と死の残酷な魅力は、そこで永久に消滅する。
私の兄弟たちよ、神の心の中であなた方を包み込み安全に清らかに麗しく保つ平安を知ってさえいたなら、あなた方は神の祭壇の前で神に会うために、すぐさま駆けつけずにはいられないだろう。
あなたの名と神の名があがめられんことを。
なぜなら、それらはこの聖なる場でひとつにつながっているからである。
ここで神は身をかがめてあなたをご自身のもとへと抱き上げ、幻想から聖性へ、世界から永遠へ、そしてすべての恐怖から愛のもとへと、戻してくれる。