【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】序 Ⅰ.精神療法のプロセス

「抵抗」。

 

20年間のセラピスト人生の中で、「抵抗」と、格闘してきた。

 

”「抵抗」とは、ものごとについての自我による見方のことであり、進歩と成長についての自我による解釈のことである。”

 

対人にて、「真理」に抵抗している人の「抵抗」に悪戦苦闘してきたと思っていたけど、やはり、抵抗していたのは、わたしの方だった。

 

ただ開かれたままでいることに「抵抗」していたのだ。

 

開かれたままでいることにゆだねるだけなのだ。

 

閉じられていることに傷ついて、閉じられているものに近づこうとしなかったけど、そのこと自体が自我の働き。

 

傷つき得ないものなのだから。

 

そして、相変わらず、傷つく世界は傷つき続ける。

 

そこに巻き込まれて行くことなく、それに関わるのではなく、「そうなのだ」と見抜くだけ。

 

聖霊は忍耐強い。聖霊は待つ。」

 

なぜなら、それはすでに、成就しているから。

 

最初から、居ない場所に、居ようとしないでいい。

 

愛は只そこにある。

 

愛のまま在る。

 

だから愛のままで。

 

・・・

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 序

 

精神療法は自己に関する見解を変えるプロセスである。

うまくいけばこの「新しい」自己は以前より善良な自己概念となるが、実相の確立を精神療法に期待することはとうていできない。

それは精神療法の機能ではない。

実相につながる道を開くことができれば、精神療法は究極の成功を達成したことになる。

精神療法の機能全体が、最終的には、患者が一つの根本的誤りに対処できるように助けることにある。

その誤りとは、「怒りは、自分が真に望むものをもたらしてくれるものであり、攻撃を正当化することにより、自分が保護される」という信念である。

これが誤りだということを彼が認識するその度合いに応じて、彼は真に救われる。

 

患者はこのようなゴールを念頭において精神療法を受け始めるわけではない。

それどころか、そうした概念は、彼らにとってはほどんど意味がない。

意味があったなら、もとより彼らに助けは必要なかったはずである。

彼らが目指しているのは、自分の自己概念は厳密にそのまま維持しつつも、その概念に伴う苦しみは被らずにいられるようになることである。

それが可能だという狂気の信念の上に、彼らの精神的安定のすべてが依拠している。

そして、それは正気な心にとっては明らかに不可能なことであるから、彼らが求めているのは魔術である。

幻想の中では、不可能なことでもたやすく達成されるが、それは幻想を真実とするという代償を払った上でのみ可能なことである。

患者は、すでにこの代価を払っている。

その上で今度は「よりよい」幻想を望んでいるのである。

 

したがって、最初は、患者のゴールとセラピストのそれは食い違っている。

患者と同様にセラピストも、虚偽の自己概念を大切にしているかもしれないが、それでも、「向上」についての双方の知覚はそれぞれに異なっているはずである。

患者が学びたいと望んでいるのは、意義あるところまで自分の自己概念を変えることはせずに、自分の望む変化だけを手に入れる方法である。

実のところ彼は、自分が精神療法の中に求めている魔術的な力を、自分の自己概念の中に含めることができるところまで、その概念を充分に安定させることを望んでいる。

彼は、傷つきやすいものを傷つき得ないものとし、限りあるものを限りなきものにしようとしている。

彼が見ている自己が彼の神であり、その神にさらによく仕えることのみを、彼は求めているのである。

 

セラピストは、彼自身がどれくらい真摯であるかには関わりなく、自らが確かなものだと信じている何らかの形に、患者の自己概念を変化させたいと望むものである。

治療の課題は、これらの相違に折り合いをつけることである。

できるなら、両者とも各自がはじめにもっていたゴールを放棄することを学ぶのが望ましい。

というのも、救済が見出されるのは、対人関係の中においてのみだからである。

最初のうちは、患者もセラピストも共に、魔術的な意味合いが皆無ではない非現実的なゴールを受け入れることは避けられない。

最終的には、それらのゴールは、両者の心の中で放棄される。

 

Ⅰ.精神療法の限界

 

しかし、そのような理想的な成果が達成されることは稀である。

治療は、癒しとは心の癒しのことだという認識で始まるものであり、精神療法においては、すでにこのことを信じている者同士が対座している。

彼らがそれ以上はあまり前進しないということもあるだろう。

誰でも、自分に準備ができているところまでしか学ばないからである。

しかし準備のレベルは変化するものであり、セラピストか患者のどちらかが次のレベルに達したときには、変わりつつある必要に見合った関係が、彼らの前に差し出されるだろう。

彼らは再び出会って互いとの関係の中で進歩し、それを神聖なものにしていくかもしれない。

あるいはまた、各々が別の約束関係の中に入っていくことになるかもしれない。

確信してよいことは、どちらも進歩するということである。後退は一時的なものである。

全般的な針路は、真理に向かっている。

 

精神療法そのものは、創造的ではあり得ない。

こうしたことは、自我が助長する誤りの一つである。

すなわち、精神療法には真の変化をもたらす力があり、それゆえに、真の創造性を発揮する力もあるとする誤りである。

私たちが「救いをもたらす幻想」や「最後の夢」について語るとき、私たちが意味しているのはこのことではないが、ここには自我の最後の防衛がある。

「抵抗」とは、ものごとについての自我による見方のことであり、進歩と成長についての自我による解釈のことである。

これらの解釈は必然的に間違うことになる。

なぜなら、それらは妄想的なものだからである。

自我がもたらそうとしている変化は、実際には変化ではない。それらは単に、影が濃くなったり、雲の模様が変わったりするだけのものである。

だが、虚無で作られているものを、新しいとか異なるなどと呼ぶことはできない。

幻想はあくまでも幻想であり、真理はあくまでも真理である。

 

ここで定義されているような抵抗は、患者だけでなくセラピストにも見られることがある。

いずれにしても、それは精神療法の目標を制限するので、精神療法に限界を設けることになる。

また、聖霊が、治療のプロセスへの自我による侵入に対抗して戦うことはできない。

しかし、聖霊は待つ。

そして、聖霊の忍耐は無限である。

聖霊のゴールは、常に、まったく分割されていない。

患者とセラピストが各自の異なるゴールに関連してどのような解決に達するにしても、彼らは、聖霊のゴールにつながるまでは、ひとつのものとして完全に和解することはできない。

聖霊のゴールにつながったときのみ、すべての葛藤が過ぎ去る。

そのときにのみ確かさが存在し得るからである。

 

理想的に言えば、精神療法とは一連の神聖な出会いであり、その中で、兄弟は互いを祝福し神の平安を受け取るために対面する。

そしてこれは、地上に居る「患者」のすべてに、いつの日か起こることである。

そもそも患者以外の誰が、ここに来ることなどできただろう。

セラピストとは、いくらか専門的に神の教師として働く者にすぎない。

彼は教えることを通じて学び、進歩すればするほど、より多くを教え、より多くを学ぶ。

しかし、彼がどの段階に居ようとも、ちょうどその段階に居る彼を必要とする患者たちがいる。

彼らは、今のところ彼が与えることができる以上のものと受け取ることはできない。

それでも、双方が最後には正気を見出すことになる。