【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅱ.精神療法における宗教の位置

この世界の夢から覚めたとき、「神」と直結していると思い出す。

 

わたしたちに別々の望みはなかった。

 

すべてのひとの望みは夢から覚めること。

 

その望みを共同作業で解いていく。

 

共同でないと解けない。

 

すべてのひとの望みが同じだったと知る。

 

そして、その同じへと向かうために手を取り合う。

 

やがてそれはひとつになる。

 

全体性へと目覚める。

・・・

 

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】

 

 Ⅱ.精神療法における宗教の位置

 

神の教師であるためには、信心深い必要はなく、それとわかるほどに神を信じていることさえ必要ない。

しかしながら、咎めではなく赦しを教えることは必要である。

この点においてさえ、完全な一貫性が要求されるわけではない。

そうした一貫性を達成した者であったなら、一瞬のうちに、無言のまま、救済を完全に教えることができる。

しかし、すべてのことを学んだ者にとって教師は必要なく、癒された者にもセラピストは必要ない。

それでも依然として、対人関係が聖霊の神殿であり、それらは時間の中で完璧なものにされ、永遠へと戻されるだろう。

 

形式的宗教は、精神療法の中に居場所をもたないが、宗教の中にも真の居場所をもたない。

この世界では、相矛盾する二つの言葉を一つにつなぎ合わせておきながらその矛盾をまったく知覚しないという、驚くべき傾向がある。

宗教を形式的なものにしようとする試みは、相容れないものを調和させようとする自我の試みであることはあまりに明白であり、ここで詳しく述べるまでもない。

宗教とは経験であり、精神療法も経験である。

その最高レベルにおいては、それらはひとつになる。

どちらも真理そのものではないが、両方とも真理に至ることができる。

今も完璧に明白であり続ける真理を見出すためには、真実なる自覚への障害のように見えるものを除去すること以外に、何が必要となり得るだろう。

 

赦すことを学ぶ者なら誰でも、神を思い出せないということはあり得ない。

したがって、赦しのみが、教える必要のあるすべてである。

なぜなら、それのみが学ぶべきすべてだからである。

神の想起を阻む障壁となるのは、赦そうとしない思いのさまざまな形であり、それ以外の何ものでもない。

このことは、患者にとっては決して明らかなことではなく、セラピストにとっても明らかであることはごく稀である。

この一つのことについての自覚に対抗して、世界はあらゆる力を結集してきた。

というのも、その中にこそ、世界の終焉と、世界に象徴されるすべてのものの終焉があるからである。

 

しかし、精神療法のゴールとするにふさわしいのは、神についての自覚ではない。

それは、精神療法が完了したときに訪れることである。

赦しがあるところには、必ず真理が訪れるからである。

精神療法の成功のために神を信じることが必要であったなら、それはまことに不公平と言わねばならない。

また、神を信じるということは、実際には意味のある概念ではない。

なぜなら、神はただ知られることができるのみだからである。

信じるということは、信じないことが可能だと示唆するものだが、神の知識に真の対極はない。

神を知らないということは、知識をもたないということであり、すべての赦そうとしない思いが行き着く先はここである。

そして、知識をもっていなければ、人はただ信念を抱くことしかできない。

 

さまざまな教材が、さまざまな人々を魅了する。

宗教のうちのいくつかの形態は神とはまったく無関係であり、精神療法のいくつかの形態は癒しとは何の関係もない。

しかし、もし生徒と教師が単一のゴールを共有することにおいてひとつにつながるなら、神が招き入れられたことになるので、その関係の中に神は入ってくる。

同様に、患者とセラピストの目的の融合により、まずがキリストの心眼を通して、次に神ご自身についての記憶を通して、神が優位に戻される。

精神療法のプロセスとは正気への帰還である。

教師と生徒も、セラピストと患者も、みな正気を失っている。

そうでなければ、彼らがこの世界に居るはずはない。

一緒になれば、彼らは世界から脱出する道を見つけることができる。

誰も自分ひとりで正気を見出すことはないからである。

 

もし癒しが、神を神の国へ招き入れる招待であるのなら、その招待状がどのようにして書かれるかが、問題になるだろうか。

それに使われた紙や、インクや、ペンが、重要だろうか。

また、招待状を出すのは、それを書く者だろうか。

神は、ご自身の世界を復元しようとする者たちのところへやってくる。

彼らは神に呼びかける方法を見つけたからである。

誰にであれ二人の者がひとつにつながれば、神は必ずそこにいる。

彼らの目的が何であるかは重要ではないが。成功するためには彼らはその目的を全的に共有しなければならない。

キリストに祝福されていないゴールを共有することは不可能である。

というのは、キリストの目に見えないものは、あまりに断片化され、意味を失っているからである。

 

真の宗教は癒しをもたらすものであるから、真の精神療法も宗教的とならざるを得ない。

しかし、どちらにも多くの形態がある。

なぜなら、良き教師は、あらゆる生徒に同一の教え方をすることはないからである。

それどころか、そのような教師は一人ひとりの生徒に根気強く耳を傾け、彼に彼自身のカリキュラムを構築させる。

ただし、カリキュラムのゴールを彼に決めさせるのではなく、カリキュラムが彼に設定したゴールに達するための最良の方法を決めさせるのである。

おそらく、そうした教師は、神を教育の一部とは考えていない。

そしてそうしたサイコセラピストも、癒しは神からくると理解してはいないことだろう。

彼らこそ、神を見出したと信じている多くの者たちが失敗するところで、成功することができる。

 

学びを確実にするために、教師は何をしなければならないのだろうか。

癒しをもたらすために、セラピストは何をしなければならないのだろうか。

それは、ただ一つのことだけである。

すなわち、救済がすべての者に求めているのと同じ条件である。

各人がひとつのゴールを誰か他の者と共有し、そうすることにより、別々の利害という感覚のすべてが無くならなければならない。

これを行うことによってのみ、教師と生徒も、セラピストと患者も、あなたと私も、贖罪を受け入れ、受け取られた通りにそれを与えることを学ぶことができる。

 

聖餐は一人では不可能である。

孤立している者は誰も、キリストの心眼を受け取ることはできない。

それは彼に差し出されているが、彼のほうでそれを受け取るために手を差し出すことができない。

彼を静かにさせ、彼の兄弟の必要は彼自身の必要と同じであると認識させなさい。

それから、彼に兄弟と自分の必要を満たさせ、それらがひとつのものとして満たされるということを理解させなさい。

なぜなら、それらは確かにひとつのものだからである。

宗教とは、これが事実であると彼がわかるように助けるための援助以外の何だろうか。

そして、精神療法とは、まさにこれと同じ方向の助け以外の何だろうか。

これらのプロセスを同じものにするのはそのゴールである。

なぜなら、両者はその目的においてひとつであり、したがって、手段においてもひとつでならなければならないからである。