【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅳ.病のプロセス

良かれと思ったことが攻撃に取られてしまう。

 

その意味がここに書いてあった。

 

「正気」になることの促しが「自己の攻撃」と取られてしまう。

 

それは、わたしもそうだ。

 

自己のあり方を指摘されると、攻撃されたように感じる。

 

でも、それは「正気」への誘いでしかない。

 

だから、甘んじて、ただ受け入れるのみだ。

 

それに、「自己」という重荷は本当に呪縛でしかない。

 

なんでこんなに大事にしようとするのだろう。

 

判断をゆだね、「わからなさ」のままでいたい。

・・・

【第二章 精神療法のプロセス】 

 

Ⅳ.病のプロセス

 

すべての治療が精神療法であるのと同じく、すべての病は心の病である。

それは神の子への裁きであり、裁きとは心の活動である。

裁きは決断であり、被造物とその被造物に対して、何度も繰り返して為されているものである。

それは、宇宙を自分で創造したかった通りに知覚するという決断である。

それは、真理が嘘をつくことがあり、真理とは嘘に違いないとする決断である。

それならば、病とは、悲しみと罪悪感の表現以外の何であり得るだろう。

そして誰が、自らの失われた無垢性を嘆く以外に、涙を流したりするだろう。

 

ひとたび神の子が有罪だと見なされたなら、病は必然となる。

それは求められたのだから、受け取られるだろう。

そして、病を求める者はすべて、今や、助けにならない治療法を探し求めるという運命を自分に宣言したことになる。

なぜなら、彼らは救済ではなく病に信を置いているからである。

心の変化が影響を及ぼせないものは何もない。

すべての外的なものごとは、すでに為された決断の影でしかないからである。

決断を変えなさい。

そうすれば、その影は変わらずにはいられない。

病は罪悪感の影でしかあり得ず、それはいびつなものを模倣しているので、奇怪で醜悪である。

いびつなものが実在すると見なされているのなら、その影がいびつ以外の何となり得るだろう。

 

ひとたび罪悪が実在するという決断が下されたなら、そのあとは地獄への下降が一歩ずつ必然的な進路をたどることになる。

そうなると、病気と死と不幸が、あるときは一度に、またあるときは無残にも次々と、情け容赦なく怒涛のように押し寄せて地上を脅かす。

しかし、これらのものごとはすべて、どんなに実在するように見えようとも、幻想でしかない。

このことがひとたび認識されたなら、誰がそれらを信じられるだろう。

そしてこのことを認識するまでは、誰がそれらを信じずにいられるだろう。

癒しは、治療あるいは訂正であり、すでに述べた通り、そしてこれからも繰り返し述べるように、すべての治療は精神療法である。

病気の者たちを癒すとは、彼らにこの認識をもたらすことに他ならない。

 

「治療」という言葉は、この世界の比較的「品位ある」セラピストたちの間では不評を買うに至ったが、それはもっともなことである。

というのも、彼らのうち誰一人として治療をもたらすことはできず、彼らのうち誰一人として癒しを理解していないからである。

最悪の場合には、彼らは自分自身の心の中で肉体を実在のものと見なすだけであり、そうした上で、彼らの心が肉体に与える疾病の数々を癒すための魔術を探し求めるだけである。

このようなプロセスが、どうして治療をもたらすことなどできるだろう。

それは、はじめから終わりまでばかげている。

しかし、始まってしまったので、そのようにして終わらざるを得ない。

それはあたかも、神とは悪魔であって、悪の中に見出さなければならないものであるかのようである。

どうしてそこに愛があり得るだろう。

そして、どうして病気が治療をもたらせるだろう。

これらは両方とも、同一の問いではないだろうか。

 

「ヒーラー」という言葉がここで適切かどうかは疑わしいが、この世界の「ヒーラーたち」は、うまくいけば、心の病の源として認識するかもしれない。

しかし、彼らの誤りは、心が自らに治療をもたらすことができるという信念の中にある。

「誤りの度合い」というものが意味をなす世界においては、この信念には、いくらかの功績がある。

だが、彼らによる治療は一時的なものにとどまるか、あるいは、その代わりに別の病が生じることにならざると得ない。

なぜなら、愛の意味が理解されるまでは、死が克服されてはいないからである。

そしてこのことは、神からあなたへの贈り物として神により聖霊に授けられている神の言葉なくして、誰に理解できるだろう。

 

いかなる種類の病も、自己を、「弱く、傷つきやすく、邪悪で、危険にさらされていて、そのため絶えず防衛する必要があるもの」と見なした結果である、と定義することができる。

だが、もしそのようなものが実際に自己であったなら、防衛は不可能となる。

それゆえに、追求される防衛は、魔術的なものでなければならなくなる。

それらは、自己の中に知覚されるすべての限界を克服するような防衛でなければならないと同時に、古い自己が戻ってくることができないような新しい自己概念を作り出すものでなければならない。

要するに、誤りが実在するものとして受け入れられ、幻想によって対処されるということである。

真理が幻想の中に取り込まれて、実相は今や脅威となり、邪悪なものと知覚される。

実相とは愛であるから、愛が恐れられるようになる。

そのようにして、救済による「侵略」に対抗して円環が閉じられる。

 

したがって、病とは間違いであり、訂正を必要とするのものである。

そして、私たちがすでに強調したように、最初に間違いの「正しさ」を立証した上で次にそれを見過ごすというやり方では、訂正は達成できない。

もし病が実在するのなら、真にそれを見過ごすことはできない。

というのも、実在するものを見過ごすことは狂気だからである。

だが、それこそが魔術の目的である。

すなわち、偽りの知覚を通じて幻想を真実にしようとすることである。

これは、真理に反しているので、癒すことはできない。

おそらく、健康のように見える幻想で少しの間は代用されることはあるが、長くは続かない。

怖れは幻想の一部であるから、幻想によっていつまでも恐れを隠したままにしておくことはできない。

それは逃げ出てまた別の形をとることになる。

恐れがすべての幻想の源なのである。

 

病気とは狂気である。

なぜなら、すべての病気は心の病であり、そこには程度というものはないからである。

病気を実在のものと知覚される幻想の一つが、病の症状には軽度の差があるという信念である。

すなわち、脅威の度合いは病がとる形に応じて異なる、というものである。

ここに、すべての誤りの土台がある。

というのは、それらはすべて、ほんの少しの地獄を見ることによって妥協しようとする試みにすぎないからである。

これは、神にとってはあまりに異質な紛いものなので、永久にあり得ないものであり続けるしかない。

しかし、狂っている者は正気を失っているからこそ、それを信じるのである。

 

狂人は、自分が抱くいくつもの幻想の中に自分自身の救済を見ているがゆえに、それらを防衛しようとする。

それゆえに、彼は、幻想から彼を救おうとする者を、自分を攻撃してくると信じて、攻撃する。

攻撃と防衛から成るこの奇妙な周期は、サイコセラピストが対処しなければならない最も難しい問題の一つである。

実は、これこそが彼の中心的な課題であり、精神療法の核心である。

セラピストは、患者の自画像という、患者が最も大切にしている所有物を攻撃する者と見なされる。

そして、この自画像は、患者自身の知覚においては彼の安全となっているので、セラピストは、真の危険と見なされるしかない。

攻撃すべき相手や、殺すべき相手とすら見なされるのである。

 

それならば、サイコセラピストには、途方もない責任がある。

彼は、攻撃に対して、攻撃せずに、したがって防衛せずに、対応しなければならない。

彼の課題は、「防衛は不要であり、防衛しない態度が強さである」ということを手本で示すことである。

正気さは安全だというレッスンを教えるには、以下のことが、彼の教えることとならねばならない。

「狂っている者は、正気を脅威だと信じている」ということは、いくら強調してもしすぎることはない。

これが、「原罪」からの当然の結果である。

すなわち、罪悪は実在しており、充分に根拠のあるものだという信念である。

したがって、サイコセラピストの機能は、罪悪は実在していないので根拠のあるものではないと教えることである。

しかし罪悪は安全なものでもない。

それゆえに、それは実在しないものというだけでなく、望ましくないものにとどめておかれるべきものである。

 

救済のもつ単一の教義が、すべての治療のゴールである。

心がこんなにもくたびれ果てながら、背負っている狂った重荷である罪悪感を、心から取り除きなさい。

そうすれば、癒しは達成される。

肉体は癒されるのではない。

単にありのままに認識されるだけである。

正しく見られて、肉体の目的が理解できるものとなる。

そのときには、病気の必要などあるだろうか。

この単一の転換があれば、他のすべてがその後に続く。

複雑な変化の必要はない。

長期にわたる分析や、うんざりするほどの議論や探究の必要もない。

すべてのものにとって一つしかないので、真理は単純である。