以前は「説得」がどうにも苦しかった。
「その苦しみは、思い込みだ」とわかって欲しくても、警戒されたり、抵抗されたり、攻撃とみなされたり。
自分で、どうにか説得しなきゃいけないと、自力に頼り、高みに上らないと説得できないと、論破のための準備や学びに余念がなかった。
だけど、警戒も、抵抗も、攻撃も、それはわたしが作ったもの。
どんなに警戒されても、抵抗されても、攻撃されても、大丈夫なのだった。
それを感じるたびに、「わからなさ」にゆだねる。
警戒も、抵抗も、攻撃も、内側で生じた感覚は感じ取られて見抜かれて、消えていく。
こうして、わたしと兄弟はひとつだと気づく機会になる。
「空」をわかち合うための、「説得」に積極的であろう。
・・・
【第二章 精神療法のプロセス】
Ⅴ.癒しのプロセス
真理は単純であるとはいえ、果てしない複雑さの迷路の中ですでに道に迷ってしまった者たちに対しては、依然として、教えなければならないものである。
これが、巨大な幻想である。
その結果として必然的に生じる信念が、「安全であるためには、人は未知のものを制御しなければならない」というものである。
この奇妙な信念は、決して意識されることのない特定のステップを拠りどころとしている。
まずはじめに、それは、「ともかく生きているためには克服されるべきいくつもの勢力がある」という信念によって招き入れられる。
そして次に、あたかもこれらの勢力は、肥大した自意識によってのみ、遠ざけて置くことができるものであるかに見える。
そしてこの自意識は、真に感じていることを闇の中に保持し、幻想のほうを明るみに出しておこうとしている。
助けを求めて私たちのところにやってくる者たちは激しく恐れているということを、覚えておこう。
助けになると彼らが信じているものは、害になるだけであり、害になると彼らが信じているものだけが、助けになる。
患者が世界を見ているねじれたやり方を、すなわち彼自身を見ているねじれたやり方を逆転させよう。
患者本人を説得できるまでは、進歩は不可能である。
真理は単純である。
しかし、真理が自分たちに危険をさらすと思っている者たちには、真理を教えなければならない。
危険にさらされていると感じているがゆえに攻撃する者たちや、何にもまして防衛しない態度を養うレッスンを必要としている者たちに対しては、強さとは何かを示すために、真理を教えなければならない。
もしこの世界が理想的なものであったなら、おそらく理想的な治療もあり得ただろう。
とはいえ、理想的な状況においてはそのようなものは無用である。
私たちは、理想的な教師が長くとどまることのできないような世界における理想的な教え方について話している。
そこでは、完璧なサイコセラピストなど、まだ思われたこともない想念のかすかな光にすぎない。
しかし、それでも私たちは、達成可能な範囲内で、狂気の者たちを助けるために今のところ何ができるかについて、話ているのである。
彼らが病んでいる間は、彼らを助けることはできるし、助けなければならない。
それ以上のことは、精神療法には要求されていない。
また、自分がもっていて与えることのできるすべてよりも少ないようなものは、セラピストにふさわしくはない。
なぜなら、神ご自身が、彼の兄弟を、世界から彼を救う救済者として差し出しているからである。
癒しは神聖である。
この世界において、助けを求める者を助ける以上に神聖なことはない。
そして、たとえいかに限定されていようと、いかに誠意に欠けていようと、二人の者はこの試みにおいて神にきわめて接近するのである。
二人の者が癒しのためにつながり合ったところには、神が居る。
そして、神は、真に彼らのことを聞き、彼らに応えると、保証している。
癒しは神が指揮しているプロセスであると、彼らは確信してよい。
なぜなら、癒しは神の意志に従っているからである。
兄弟を助けようとするとき、私たちには、私たちを導いてくれる神の言葉がある。
自分たちだけでは非力であることを忘れずにいよう。
そして、何を学び、何を教えるかについても、自分たちの小さな範囲を超越した強さを頼みとしよう。
援助を探し求めている兄弟は、いかなる夢の中で知覚される高みをも超えた贈り物を、私たちにもたらすことができる。
彼は私たちに救助を差し出すのである。
というのも、彼はキリストおよび救済者として、私たちのもとのやってくるからである。
彼が求めるものは、彼を通して神が求めるものである。
そして、私たちが彼のために為すことは、私たちが神に与える贈り物となる。
聖なる神の子が自ら知覚している苦悩の中で助けを求めているとき、その神聖な呼びかけに応えることのできるのは彼の父のみである。
しかし、神は、ご自身の神聖な言葉を語るための声を必要としている。
神の子に差し伸べ、彼のこころに触れるための手を必要としている。
このようなプロセスにおいて、誰が癒されずにいられるだろう。
この神聖な関わり合いが、神ご自身の計画であり、それにより神の子が救われる。
二人の者がつながり合ったからである。
そして今や、神の約束が神のより守られる。
患者とセラピストの両方に課せられている限界は無いも同然となる。
癒しが始まったからである。
彼らが始めなければならないことは、父が完了させるだろう。
なぜなら、神はこれまで一度として、ほんの小さな意欲と最小限の進歩と、神の名を囁くかすかな声以上のものは求めたことがないからである。
いかなる形を取ろうとも、助けを求めるということは、ただ神に呼びかけることであるにすぎない。
そして神は、神の子の現在の必要のすべてに最も役立つことのできるセラピストを通して、神の答えを送るだろう。
その答えは天国からの贈り物であるようには見えないかもしれない。
それが助けではなく状況の悪化と見えることさえあるかもしれない。
しかし、結果を私たち自身で裁くことはしないでいよう。
すべての神の贈り物はどこかで必ず受け取られる。
時間の中で努力が無駄になることはあり得ない。
癒そうとする試みにおいて私たちに求められるものは、自分の完璧さではない。
癒しの必要というものが存在すると思っているのなら、私たちはすでに欺かれている。
そして、真理は、病気という私たちの夢を共有しているかに見える者を通してのみ、私たちのもとに訪れる。
彼が原因もなく自分自身を咎めようとして使ってきたすべての罪過について自分自身を赦せるように、彼を助けよう。
彼の癒しは私たち自身の癒しである。
そして、神の子を覆っていた罪悪のベール越しに彼の無罪性が輝くのが見えるとき、私たちは彼の中にキリストの顔を見て、それが私たち自身の顔に他ならないことを理解するだろう。
私たちは無言で神の意志の前に立ち、その意志が、私たちが為すべきと選んだことを為そう。
すべての夢が始まったところへと行き着く道は、ただ一つしかない。
そしてそこにおいて、私たちはそれらの夢を手放し、平安の内に永遠にそこに立ち去る。
兄弟が助けを求めているのを聞き、彼に答えなさい。
あなたが神を呼んだからである。
神の声を聞くための道は他にない。
神の子を探すための道は他にない。
あなたの自己を見つけるための道は他にない。
癒しは聖なるものである。
その優しい抱擁を通して、神の子が天国へ帰るからである。
癒しは神を代弁する声を通して、彼のすべての罪は赦されたと彼に告げるからである。