わたしが「セラピスト」になりたい!という心の中のわけのわからない揺さぶられに従ったとき、辺り一面「光」が煌めいた!!!
だけど、それからは、葛藤続きだった。
「セラピスト」という職業は、自分を「特別」な存在、「個人」だと実証するためのものになってしまった。
そして、その分離感や、違和感や、不自然さから、「セラピスト」とはなんだろう?とあらためて「奇跡講座」で見直すことになった。
そして、裁くことを忘れる瞬間が生じたとき、心がひとつになった。
「対等性」のわかち合い。
これだけが。
肉体の夢の中で、唯一の機能として、「対等性」を思い出す機会のみ。
これだけが心の中の「光」として瞬いている。
・・・
第三章 精神療法という職業
Ⅱ.精神療法は専門職であるか
厳密に言えば、答えは「否」である。
一つの個別の専門職が、どうして、万人が携わるものであり得るだろう。
そして、誰もが自分の関わるあらゆる関係において患者とセラピストの両方であるというのなら、そのような関わり合いに対して、何らかの限界を課すことなど、どうしてできるだろう。
しかし、実用面から言えば、自分の主な機能として、何らかの種類の癒しに自分自身を捧げることを主目的としている者たちがいると述べることは、依然として可能である。
そして、彼らのもとへ、他の大勢の人々が助けを求めて頼ってくる。
事実上、これが治療を専門とする職業である。
したがってこれが、「正式」に、助力者と言える者たちである。
彼らは、自分の専門的活動における特定の種類の必要に献身しているが、そうした活動の枠外でのほうがはるかに有能な教師であるという場合もある。
もちろん、これらの専門的活動に携わる者たちに特別なルールは必要ない。
しかし、彼らが一般的な癒しの原理を特別に応用した形を用いるように求めることはあるかもしれない。
第一に、専門的セラピストは、癒しに難しさの序列がないということを実証するのに格好の立場にいる。
しかし、そのためには、彼には特別な訓練が必要である。
なぜなら、彼がセラピストになるために学んだカリキュラムは、おそらく、彼に癒しの真の原理について、ほとんど、またはまったく、教えてくれなかったはずだからである。
実のところ、おそらくそのカリキュラムは、癒しを不可能にする方法を彼に教えたに違いない。
世界の教えのほとんどは、裁きについてのカリキュラムに従っており、セラピストを審判者にすることを狙いとしている。
このようなカリキュラムですら、聖霊は使うことができるし、ほんのわずかでも招待されれば、確かにそれを使うだろう。
癒されていないヒーラーは、傲慢であったり、利己的かつ無関心であったり、実際に不誠実であったりするかもしれない。
彼は、癒しに対し自分の主要なゴールとしての関心はもってないかもしれない。
しかし、彼はヒーラーになる選択をしたとき、たとえどんなに間違った導きによりその方向を選んでいたとしても、ほんのわずかであれ彼に何かが起こったのである。
その「何か」で充分である。
遅かれ早かれ、その何かが頭をもたげ、大きくなっていくだろう。
患者のひとりが彼を感動させ、セラピストである彼が静かにその患者に助けを求めることになるだろう。
彼は自分自身にセラピストを見つけたのである。
彼は聖霊に、その関係の中に入ってきてそれを癒してくれるようにと求めた。
彼は、自分自身に贖罪を受け入れたのである。
神は、ご自身が創造したものすべてを見て、良しとしたと言われている。
しかしそうではなく、神はそれが完全無欠であると宣言したのであり、だからそのようになったのである。
そして、神の被造物たちは変わることがなく、常しえに永続するのだから、それは今もそのままである。
しかし、完全無欠なセラピストというものも、完全無欠な患者というものも、とうてい存在不可能である。
セラピストも患者も自分の完全無欠性をすでに否定しているはずである。
なぜなら、彼らがお互いを必要としているということ自体が、欠乏感があることを示唆しているからである。
一対一の関係は、一なる関係とは違う。
それでもそれは、帰還のための手段であり、神の子の帰還のために神が選択した道である。
そうした不可思議な夢の中には、不可思議な訂正が入っていかなければならない。
というのも、それだけが、目覚めへの呼びかけだからである。
そして、それ以外の何が、治療と言えるだろう。
目覚めて、喜びなさい。
あなたのすべての罪は赦されているからである。
これが、二人の者が互いに与えるべき唯一のメッセージである。
患者とセラピストの出会いの一つひとつから、必ず何か善きものが生じるはずである。
そしてその善きものは、彼らが自分たちの間の関係においてそれだけが実在するものだったと認識できる日のために、双方のためにとっておかれる。
それが認識されるとき、その善きものは、創造主からの愛のしるしの贈り物として、聖霊により祝福され、彼らに戻される。
というのも、治療のための関係は、必ず父と子の関係と同質のものとなっていくからである。
この他に関係というものはない。
他には何もないからである。
この世界のセラピストたちは、このような結果を期待してはいない。
また、もし期待していたなら、彼らの患者の多くは、彼らから助けを受け入れることができないだろう。
だが、実際には、セラピストが自分に関わっている関係のゴールを定めるのではない。
彼の理解は、このことを認識することから始まり、そこから進展していく。
癒しは、セラピストが患者を裁くことを忘れるその瞬間において生じる。
決してこの地点に達することのない関係もある。
だがその場合でも、そのプロセスの中で患者とセラピストの両方が自分たちの夢を変化させるということはあるだろう。
だが、それは、彼らの両方にとって同一の夢とはならないので、両者をいつか目覚めさせることになるような赦しの夢ではない。
善きものは保存されるし、実際、大切にされる。
しかし、時間はほんの少し省かれるだけである。
新しい夢は一時的な魅力を失い、恐れの夢に変わるだろう。
恐れがすべての夢の内容である。
だが、自分が受け取る準備ができている以上のものを受け入れることのできる患者はいないし、自分がもっていると信じている以上のものを差し出すことのできるセラピストのいない。
それゆえに、この世界には、すべての関係のための場があり、それらは、各人が受け入れて使うことができる限りの善きものをもたらすことになる。
だが、癒しが生じるのは、裁きが止むときである。
なぜなら、そのときにのみ、癒しに難しさの序列はないということが理解され得るからである。
これが、癒されたヒーラーにとって不可欠な理解だからである。
彼は、兄弟を一つの夢から目覚めさせることのほうが、別の夢から目覚めさせることよりも難しいわけではないということを、学んだのである。
職業的セラピストの中で、この理解を一貫して自分の心の中に保ち、自分を訪れるすべての者に差し出すことができる者は一人もいない。
この世界にも、その非常に近くまで到達した者たちはいるが、彼らはこの贈り物を完全に受け取ることはしていない。
それは、時間の終わりまでここに居て、自らの理解を地上にとどめるためである。
彼らは職業的セラピストと呼ぶことなどできない者たちである。
彼らは神の使者である。
世界の救済者である。
彼らの姿はここにとどまっている。
彼らがそうであることを選んだからである。
彼らはその他のさまざまな姿に取って代わり、優しい夢を用いて助けるのである。
ひとたび「心はつながっている」ということを悟ったなら、職業的セラピストはさらに、癒しにおける難しさの序列には意味がないということも認識できるようになる。
だが、時間の中においてこの地点に到達するよりずっと以前から、彼はそこに向かって進むことができる。
その道中で、多くの聖なる瞬間が彼のものとなり得る。
ゴールとは、旅の始まりではなく終わりを示すものであり、一つのゴールが達成されたとき、もう一つのゴールが、前方にかすかに見えてくる。
ほとんどの職業的セラピストたちは、まだ、最初の旅の初歩的段階が始まったばかりの地点にいる。
自分が何をしなければならないかを理解し始めた者たちでさえ、依然として、それに着手することに抵抗するかもしれない。
それでも、すべての癒しの法則は、一瞬のうちに、彼らのものとなり得る。
夢の中を別にすれば、旅は長いものではない。
職業的セラピストには、正しく使用されたなら莫大な時間を省くことができるような、一つの利点がある。
彼は、自分の役割を誤用したくなる誘惑が非常に大きい道を選んだのである。
このことにより、もし彼が自分に与えられていない機能を引き受けてしまいたくなる誘惑を逃れることができるなら、平安への障害の多くを実に速やかに通り過ぎることが可能になる。
癒しに難しさの序列がないことを理解するには、彼はさらに自分自身と患者の対等性についても認識しなければならない。
これには、中間点はない。
対等であるか、どうでないか、どちらか一つである。
この点で妥協しようとするセラピストたちの試みは、まことに奇妙なものである。
ある者たちは、自分の聖堂で礼拝する肉体たちを集めるためだけに、その関係を利用する。
そしてこれを、癒しと見なしている。
多くの患者もまた、この珍妙な方式を救済だと考えている。
それでも、一つひとつの出会いの中には一なる存在が居て、「兄弟よ、もう一度、選び直しなさい」と言っているのである。
いかなる形の特別性も防衛されずにはいないし、必ず防衛されることになるということを、忘れてはならない。
防衛しないセラピストは神からの強さを身につけているが、防衛するセラピストは、自分の救済の源を見失っている。
彼は見ることもなく、聞くこともない。
では、彼はどのようにして教えることができるのだろう。
それができる理由は、彼が救済計画の中の自分の持ち場につくことが、神の意志だからである。
また、彼の患者がそこで助けられて彼とつながることが、神の意志だからである。
そしてまた、それができる理由は、彼が見ることも聞くこともできないということが、いかようにも聖霊を制限することはないからである。
しかし時間の中は例外である。
時間の中では、癒しが差し出されてから受け入れられるまでの間に、大きな時差があり得る。
これが、キリストの顔にかかったベールである。
それでも、それは幻想でしかあり得ない。
なぜなら、時間は存在しておらず、神の意志は、いつでもまさに今あるままにあり続けてきたからである。