【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

第三章 精神療法という職業  Ⅲ.支払いの問題

この世界の憂い事は全部、ゆだねる。

 

そして、ひたすらに、「静寂」をわかち合う。

 

ただそれだけでいいんだなぁ。

 

・・・

第三章 精神療法という職業  

 

Ⅲ.支払いの問題

 

誰も治療のために代金を支払うことはできない。

癒しは神からのものであり、神は何も求めないからである。

しかし、聖霊によりこの世界の一切が神の計画の遂行を助けるために使われることが、その計画の一部をなしている。

進歩したセラピストにさえ、ここに居る限りは、いくらかの地上的な必要というものがある。

もし彼に金銭が必要なら、それは与えられる。

支払いとしてではなく、彼がその計画にさらに役立つように助けるためである。

金銭は悪ではない。

それは無である。

しかし、ここに居る者は誰でも、まったく幻想をもたずに生きることはできない。

なぜなら、彼はまだこれから、最後の幻想があらゆるところであらゆる者に受け入れられるように、尽力しなければならないからである。

彼には、この一つの目的における強力な役割があり、彼はそのために来たのである。

彼はそのために来たのである。

彼は、このためだけに、ここにとどまる。

そして、彼がとどまっている間は、とどまるのに必要なものが彼に与えられるだろう。

 

癒されていないヒーラーのみが、金銭のために癒そうとするだろう。

そして彼は、金銭に価値を置いている度合いに比例して、癒すことに失敗するだろう。

また彼は、その過程で、自分の癒しを見出すこともない。

聖霊の目的のために、聖霊からいくらかの支払いを求められる者たちがいるだろう。

聖霊から何も求められない者たちもいるだろう。

こうしたことを決めるのはセラピストであってはならない。

支払いと代償の間には違いがある。

神の計画が配分するところに金銭を与えることには、代償はない。

それが正しく属するところにそれを与えずにおくことには、莫大な代償が伴う。

こうしたことを行おうとするセラピストは、ヒーラーの名を失うだろう。

なぜなら、彼は癒しとは何であるかを決して理解できないからである。

彼はそれを与えることができず、それゆえに、それをもっていない。

 

この世界のセラピストたちは、実のところ、世界の救済にとっては役に立たない。

彼らは要求するので、与えることができない。

患者は、幻想を幻想と取り替えるためだけに支払うことしかできない。

このようなものは、まさに、支払いを要求することになり、その代償は大きい。

「購入された」関係は、すべての癒しが達成される手段となる唯一の贈り物を提供することができない。

聖霊の唯一の夢である癒しに、代償があってはならない。

というのは、もし代償があるとすれば、それは再び神の子を磔にするだけだからである。

これが、彼が赦される手段であり得るだろうか。

これが、罪という夢が終わる手段であり得るだろうか。

 

生きる権利とは、そのために誰も戦う必要のないものである。

それは彼に約束されており、神により保証されている。

それゆえに、それは、セラピストと患者が同様に共有している権利である。

もし彼らの関係が神聖であるべきものなら、何であれひとりが必要としているものは、もうひとりによって与えられ、何であれひとりに欠けているものは、もうひとりが供給する。

ここにおいて、その関係は神聖になる。

なぜなら、ここにおいて、両方が癒されるからである。

セラピストは、感謝の気持ちで患者に報い、患者も同じようにセラピストに報いる。

どちらにも代償は伴わない。

しかし、どちらに対しても、長きにわたる幽閉と疑念からの解放のゆえに、感謝が支払われるべきである。

このような贈り物について、感謝しない者がいるだろうか。

それでも、それを金銭で購入できるなどと思う者がいるだろうか。

 

もっている人には与えられると、よく言われてきた。

彼はもっているがゆえに、与えることができるからである。

そして、与えるがゆえに、与えられるだろう。

これは神の法則であり、世界の法則ではない。

そして、神のヒーラーたちについても同様である。

彼らは、神の言葉を聞き、それを理解したからこそ、与えるのである。

したがって、彼らが必要としているものはすべて与えられる。

しかし、彼らは、自分がもっているものはすべて神のみからきているということを覚えておかない限り、この理解を失うだろう。

もし自分が兄弟からの何かを必要としていると信じるなら、彼らはもはや彼を兄弟として認識しなくなる。

そしてもし彼らがそのように信じるなら、天国においてすら光が消えてしまう。

神の子が自分自身に敵対するところでは、彼には闇しか見えなくなる。

彼は自らに光を否定したので、見ることができない。

 

常に守られるべき原則が一つある。

それは、「誰のことも、代金を支払えないという理由で拒んではならない」というものである。

誰でも、誰かのところに、偶然送られてくるのではない。

関係とは、常に目的をもったものである。

聖霊がそこに入ってくる前にそれらの関係の目的がどんなものであったにせよ、それらは常に、聖霊の神殿となる可能性をもったものである。

すなわち、キリストの憩う場所であり、神ご自身の家である。

来る者は誰でも送られてきたのである。

ことによると、彼が送られてきたのは、彼の兄弟が必要としていた金銭を与えるためだったかもしれない。

それにより、両方が祝福されるだろう。

あるいはまた、セラピストがどれほど赦しを必要としているかを教え、そしてそれに比べれば金銭などいかに無価値なものであるかを教えるために、彼は送られてきたのかもしれない。

ここでも同様に、両方が祝福されるだろう。

代償という観点においてのみ、ひとりがもうひとりより多くをもつことができるということになる。

共有においては、誰もが代償なしに祝福を得ることしかできない。

 

支払いについてのこの見解は、非実用的に見えるかもしれない。

そして、世界の目においては、その通りである。

しかし、世界の考えは一つとして真に実用的ではない。

幻想のために努力することによって、どれだけのものが獲得できるのだろう。

神を投げ捨てることによって、どれだけのものが失われるのだろう。

そもそも、神を投げ捨てることが可能だろうか。

言うまでもなく、無のために努力したり、不可能なことを試みたりすることこそ、非実用的である。

それならば、少しの間、じっとして考えてみなさい。

自分が、どこを探せばいいかわからないまま、救済を探し求めてきたのかもしれない、と。

あなたの助けを求めてくる者なら誰でも、それがどこにあるのかをあなたに示すことができる。

これ以上に大いなる贈り物が、あなたに与えられることがあり得るだろうか。

あなたが与えたい贈り物のうち、これ以上に大いなる贈り物があるだろうか。

 

医者も、ヒーラーよ、セラピストよ、教師よ、汝自身を癒しなさい。

もしあなたが選択するなら、多くの者が癒しの贈り物を携えてあなたを訪れるだろう。

聖霊は、中に入ってあなたのもとにとどまってほしいという招待を、決して断りはしない。

あなたの救済への扉を開くために、無数の機会をあなたに与えてくれるだろう。

それが聖霊の機能だからである。

聖霊はまた、あらゆる状況とすべての時におけるあなたの機能とはいったい何なのかを、あなたに告げるだろう。

聖霊があなたのもとに送る者はみな、自分の友に向かって手を差し伸べつつ、あなたのところに来るだろう。

あなたの中のキリストに、彼を歓迎してもらいなさい。

その同じキリストが、彼の中にも居るからである。

彼が入ってくるのを拒むなら、あなたは自分の中のキリストを拒んだのである。

世界の悲しい作り話と、救済の喜ばしい福音を思い出しなさい。

喜びを平安の回復のための神の計画を、思い出しなさい。

そして、神の道がいかに単純であるかを、忘れてはならない。

 

光を求めるまで、あなたは世界の闇の中で道に迷っていた。

それゆえに神は、あなたに光を与えるべく神の子を送ったのである。