【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 第一章 祈り Ⅱ.祈りの階梯

「祈り」は一番気楽なものだ。

 

当たり前のことを当たり前だと認めている感覚。

 

自分が自由であることは、すべての人が自由であること。

 

誰一人、イメージの中、夢の中に、押し込めずに。

 

夢から放つ。

 

空を愛でる。

 

・・・

Ⅱ.祈りの階梯

 

祈りには始まりもなく終わりもない。

それは生命の一部である。

しかし、形においては変化し、学びと共に成長し、いずれは、無形となる状態に達し、神との全的な親交の中へと溶け込んでいく。

「求める」という形の祈りにおいては、神に訴えることや神を信じることさえ必要ではなく、多くの場合、そのどちらも伴うこともない。

これらのレベルにおいては、祈りとは単に、欠乏や欠如の感覚から生じる欲求であるにすぎない。

 

「必要から求める」という、こうした祈りの形態は、常に弱さと力不足の気持ちを伴っており、自らが誰であるかを知っている神の子によって作り出されることはあり得ない。

それゆえに、自らのアイデンティティーを確信している者は誰も、こうした形態で祈ることはできない。

だが、自分のアイデンティティーに確信のない者が、このようなやり方で祈ることは避けられないということも、また真実である。

そして祈りとは、生命そのものと同じく絶え間なく続いているものである。

誰もが絶えず祈っている。

求めなさい。

そうすれば、あなたはすでに受け取っている。

なぜなら、あなたは自分が望むものは何かを明確にしたからである。

 

また「必要から求めること」の高次の形態に達することも可能である。

というのも、この世界では、祈りは修復的なものであり、したがって、段階的に進む学びが必要となっているからである。

この段階では、求めることが、誠実に信じる気持ちと共に神に向けられているかもしれないが、まだ理解を伴っていない。

概して言えば、漠然としている上に通常は不安定な自己認識の感覚が達成されていはいるが、それは根深い罪の感覚により不明瞭なものとなりがちである。

このレベルにおいては、さまざまな形をしたこの世界のものごとを求め続けることがあり得ると同時に、正直さや善良さといった賜物を求めることもあり得る。

とりわけ、必要からの祈りの根底には必ず横たわっている罪悪感の数多くの源のゆえに、赦しが求められる。

罪悪感がなければ、欠乏は存在しない。

罪なき者に、必要というものはない。

 

このレベルにおいてはまた、「敵のために祈れ」として知られているあの奇妙に矛盾した言葉が生じる。

この矛盾は、実際に使われている語句にあるのではなく、それに付与されている一般的な解釈にある。

自分に敵が居ると信じている間は、あなたは祈りをこの世界の法則へと限定したのであり、さらには、受け取って受け入れるための自分の能力をも、同じ狭い範囲に限定したのである。

それでも、もしあなたに敵がいるのなら、あなたは祈りを必要としており、しかも、多いに必要としている。

この言葉は本当は何を意味しているのだろうか。

あなたがキリストを幽閉しようとすることのないのように、そしてそれによって、あなた自身のアイデンティティーの認識を失うことのないように、自分自身のために祈れ、という意味である。

誰に対しても裏切り者となってはならない。

そのようなことをすでば、あなたは自分自身に対して不実な者となるだろう。

 

敵とは、幽閉されたキリストの象徴である。

そして、キリストとは、あなた以外の誰であり得るだろう。

したがって、敵のための祈りが、自分自身の自由のための祈りとなる。

そうなれば、それはもはや矛盾した言葉ではなくなる。

それは、キリストの一体性の表明と、彼の無罪性の認識となった。

そして今や、それは神聖となったのである。

なぜなら、それが神の子を彼が創造されたままに認知するからである。

 

祈りとは、いかなるレベルにおいても、常に自分自身のためのものであることを、決して忘れてはならない。

もしあなたが祈りの中で誰かと結びつくなら、あなたは彼を自分の一部とする。

敵とはあなたであり、キリストもあなたである。

それならば、祈りは神聖になり得る前に、選択されるべきものとなる。

あなたは他者のために選択するのではない。

自分のために選択できるだけである。

あなたの敵のために、本気で祈りなさい。

そこにこそ、あなた自身の救済があるからである。

あなた自身の罪について、彼らを赦しなさい。

そうすれば、あなたは確実に赦されるだろう。

 

祈りは天国にまで届く階梯である。

その最上段においては、あなた自身の変容と同じような変容が起こる。

なぜなら、祈りはあなたの一部だからである。

地上のものごとは一つも思い出されることなく、置き去られる。

欠乏が存在しないので、求めるということがなくなる。

キリストの中のアイデンティティーは、永遠に定められたものとして、また、あらゆる変化を超越した不朽のものとして、完全に認識される。

もはや光は明滅することなく、決して消えることもない。

今や、いかなる類いの必要もなくなり、神がわが子であるあなたへの贈り物とした清らかな無罪性に永遠に包まれて、祈りは再び、本来それが意図されていたものとなることができる。

なぜなら、今や、祈りは、あなたの創造主への感謝の歌として立ち昇るからである。

それは、言葉も想念も、またむなしい欲求も伴わずにうたわれる歌であり、今ではまったく何も必要としていない祈りである。

それゆえに、祈りは、本来意図された通り、延長していく。

そして、このように与えることについて、神ご自身が感謝する。

 

神がすべての祈りのゴールであり、それが祈りに終焉の代わりに超時性を与える。

また、祈りには始まりもない。

そのゴールは一度も変化したことはないからである。

祈りの初期の諸形態は幻想である。

なぜなら、一度も自分が後にしたことのないものに到達するための階梯など、必要としないからである。

それでも祈りは、同じく幻想である赦しが達成されていない間は、赦しの一部である。

学びのゴールが達成されるまでは、祈りは学びと連携している。

その後、すべてのものが一緒に変容し、穢れなきままで、神の心の中へと戻される。

この状態は、学びを超越したものであるから、それを描写することはできない。

それでも、今も死の幻想と神への恐れを抱いて生きる神の子に平安を回復させるには、その状態の達成に必要な諸階段が理解される必要がある。