心の中にある「気がかり」を気がかりとして、まだ、見ている。
この「気がかり」を本当に、ただゆるし、「なんでもないもの」をしてそこに置く。
もう一度、あらためて、見つめてみる。
・・・
実家の祖父の異常な恐怖による抑圧と支配、両親の葛藤、その両親の離婚と、その後の両親のメンタルへの気遣い、親戚の叔父叔母への気遣い、田舎の古いしきたり、古い家、それらから逃げた。
そのときに、一人の叔母から「あんたを一生許さない」と言われた。
本当に逃げたかったのは、「不幸」を信じている、その分離意識の集合体。
みんな、内側にある確かさにさえつながっていれば、お互いを、微妙な恐怖で縛るような関係にはならなかっただろうに、それをわからない大人たちが、ゆるせなかった。
長男の父はびくびくとみんなに気を使いいつも疲弊していて、母が去ったことで傷つき、心ここに在らずでお金を散在し、離婚の原因になった実家なのに、大切にするどころか、放置してゴミ屋敷。
近くのわたしたちの家を奪った叔父叔母は、しらっと我関せずで、見栄ばかりはり、マウントしてくる。
地元を離れた叔父叔母も、同じ。
子供じみていて、話にならない。
それでも、その叔父叔母も、みんな信じている「生活」を守る必要があるのだから、仕方なかった、父母も、同じだ。
抗議しようがない、だから去るしかなかった。
みんな狂ってる。
みんな自分のことばかり。
気ちがいの祖父からや、劣悪な環境から、誰も助けてはくれなかった。
そして、叔母の「一生許さない」という言葉がまだわたしの中に刺さっている。
なんで、わたしがこんなことを言われなきゃいけないのか?
わたし以外、みんな狂ってる。
・・・
ここで書いた実家のストーリーが、まさか、わたしが書いた自我ストーリーなのか?!
信じられない!
でも、そうなのだ・・・。
わたしが狂っているんだ。
わたしがこの世界に力を見て、この世界を裁くことで、この世界をリアルにしている。
忘れないことで、リアルにしている。
この狂った世界をまともなものにしょうと期待している。
罪悪のイメージをずっと反芻している。
わたしという個人を信じてしまっている。
罪悪、”狂っている”ことを、驚くことも、怒ることも、嘆くこともないんだなぁ。
罪悪、”狂っている”ことに、力を見る必要がないんだ。
だって、幻だもの。
両手を差し出し、それが通り過ぎるときに感じる感覚にゆだね、開け放ってある方向に向くだけなんだ。
・・・
本当は誰もいない。
ゴールは神のみ。
空だけがある。
・・・
第一章 祈り
Ⅲ.他者のために祈る
私たちは、祈りとは常にあなた自身のためのものであると述べた。
そして、それはその通りである。
それでは、いったいなぜ、他者のために祈る必要があるのだろうか。
また、もしそうする必要があるのなら、どのようにして、それを行うべきなのだろうか。
正しく理解されるなら、他者のための祈りとは、あなたが自分の罪悪感の投影を兄弟から取り去るため、および、自分を傷つけているのは彼ではないということを認識できるようになるための、手段となるものである。
あなたが罪悪感から救われることが可能になるには、その前に、彼こそがあなたの敵であり邪悪な相手方であり仇であるという有毒な想念が、放棄されなければならない。
そのための手段が祈りである。
それは、上昇する力と、神にさえも届くところまで上っていくというゴールをもった祈りである。
階梯の下段を成す祈りの初期の諸形態は、妬みや恨みから自由ではない。
それらの形態の祈りは、愛ではなく復讐を要求する。
また、それらが死を求める呼びかけであることや、罪悪感を大切にする者たちにより恐れから作り出されたものだということを理解している者は、そのように祈ることはしない。
罪悪感を大切にする者たちは執念深い神に呼びかけ、それらに応えるように見えるのはその神である。
地獄を他者のために求めておいて、その後に、それを求めた者自身が地獄から逃れることは不可能である。
地獄の中に居る者たちのみが、地獄を求めることができる。
赦されて、自らの赦しを受け入れた者たちは、決してそのようなことを祈ることはできない。
ということは、これらのレベルにおける学習目標は、「祈りは、祈られた形においてのみ、答えられる」ということを認識することでなければならない。
それで充分である。
ここからは、次のレベルへと続くたやすい歩みとなるだろう。
次の上昇は意かの考えで始まる。
私が兄弟のために求めたものは、私自身が自分の身に起こってほしいと思うようなものではない。
だから、私は彼を私の敵にしてしまったのである。
他者を自由にすることの中に自分自身にとっての価値や利点を見ていない者が、この段階に到達できないことは、明らかである。
この段階に到達するのが、長い間、遅れることがあるかもしれない。
なぜなら、それが、慈悲深いものではなく危険なものに見えることがあるからである。
罪悪感を抱いている者たちにとっては、敵がいるということに真の利点があるかに見えており、敵たちが解放されるには、この想像上の利得が放棄されなければならない。
罪悪感は隠蔽されるのではなく、手放されなければならない。
また、これを少しも苦痛を感じずに行うことはできない。
そして、この段階の慈悲深い特徴を垣間見た後でも、しばらくは、恐れの中に深く後退することがある。
なぜなら、恐れの防衛はそれ自体で恐ろしいものであり、そうした防衛の数々が認識されるとき、それらは恐れも一緒に連れてくるからである。
だが、脱出手段のように見えるだけの幻想が、囚人にどんな利益をもたらしたことがあるだろう。
彼が真に罪悪感から逃れるには、罪悪は消え去っていると認識する以外にない。
そして、彼が罪悪を他者の中に隠していて、それが彼自身のものだとわかっていない間は、どうしてこのことを認識することができるだろう。
脱出に対する恐れにより、自由を歓迎することが困難になっており、敵を牢獄の番人にしてしまうことが安全であるかに見えている。
それならば、敵が解放されることが、あなた自身に狂気のような恐れを抱かせないということが、あり得るだろうか。
あなたは彼を、あなたの救済として、あなたの罪悪感からの脱出手段としてきたのである。
この脱出手段へのあなたの執着は深く、これを手放すことに対するあなたの恐れは激しい。
今、一瞬の間、立ち止まりなさい。
そして、あなたが何をしてきたか考えなさい。
それを行ったのはあなたであり、それを手放せるのもあなただということを、忘れてはならない。
両手を差し出しなさい。
この敵は、あなたを祝福しにやってきたのである。
彼の祝福を受け取り、そうすることで、あなたのこころが高揚して、恐れが手放されるのを感じなさい。
怖れにしがみついてはならない。
また、彼にしがみついてもいけない。
彼は、あなたと共に、神の子である。
彼は牢番などではなく、キリストの使者である。
あなたが彼をそう見られるように、あなた自身が彼にとってキリストの使者でありなさい。
ものごとや地位や人間の愛や、その他のあらゆる種類の外的な「贈り物」を求める祈りは、常に、牢番を仕立て上げて罪悪感から隠れるために作り出されているのだが、このことに気づくのは容易ではない。
これらのものごとは、神の代替となるゴールのため、したがって祈りの目的を歪曲するようなゴールのために使われている。
そうしたものごとを欲求すること自体が、そのような祈りである。
はっきりと求める必要はない。
神というゴールは、それ以下のいかなるゴールの探究においても失われてしまい、祈りは敵を求める要請となる。
ここにおいてさえ、祈りの力はかなり明確に認識できる。
敵を欲する者が敵を見つけそこなうことはない。
しかし、それと同じように確実に、彼は自分に与えられている唯一の真のゴールを失うことになる。
その代償について考え、それをよく理解しなさい。
他のすべてのゴールは、神を失うという代償を払わせるものである。