心はひとつであり、そこに向かうことだけが共有される。
心をそろえる。
個人個人の目論みが手放されるときに、ゆるぎないくつろぎが広がる。
これまで間違ってきたけど、それも一緒にとけていく。
すべてのひとの中のゆるぎなさを讃える祈り。
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第一章 祈り
Ⅳ.他者と共に祈る
少なくとも第二のレベルが始まるまでは、人は祈りを共有できない。
というのは、その地点に達するまでは、一人ひとりがそれぞれ異なるものを求めずにはいられないからである。
しかし、ひとたび他者を敵としておく必要が疑問視されたなら、そして、そうする理由がほんの一瞬だけでも認識されたなら、祈りにおいてつながることが可能となる。
敵同士は一つのゴールを共有しない。
このことの中でこそ、彼らの敵意が保たれている。
彼らの個別の願望が、彼らの武器であり、憎しみの中の要塞である。
祈りにおいてさらなる上昇を遂げるための鍵は、次のような単純な考え、すなわち心の変化にある。
あなたと私は、連れ立って進む。
今や、祈りにおいて助けることが可能となり、そうすることで、あなた自身の上に進むことができる。
この段階から、より速やかな上昇が始まるが、それでもまだ、学ぶべき多くのレッスンがある、
道は開かれており、希望を抱いても大丈夫である。
それでも、最初のうちは、祈りのおいてつながる者たちでさえ、祈りが真に追求すべきゴールではないものを求めがちである。
共に祈るときでも、あなた方はものごとを求めることがあり、それにより、共有しているゴールという幻想を打ち立てるだけとなる。
具体的なものを共に求めていながら、自分たちが原因を抜きにして結果だけを求めているということに気づいていないこともある。
そして、あなた方はこれを手に入れることができない。
というのも、結果を生じさせることのない原因に向かって、結果を与えてくれるよう求めて、結果だけを受け取ることができる者などいないからである。
それならば、共に祈る者たちがまずはじめに何が神の意志であるかを尋ねるのでなければ、そうしたつながり合いでさえ充分ではない。
この原因からしか、すべての具体的なものごとを満足させる答えが生じることはあり得ない。
そしてその答えの中では、すべての個別の願望がひとつに統合されている。
具体的なものごとを求める祈りは、常に、何らかの形で過去が繰り返されることを求めている。
かつて楽しまれていたもの、そのように見えたもの、また、他の人のものでその人が好んでいるように見えたものなどーーこれらすべてが、過去からの幻想にすぎない。
祈りの目指すところは、現在が引きずっている過去の幻想の連鎖から現在を解放することである。
そしてまた、間違いを表していた選択の一つひとつから癒されるための治療法として、祈りが自由に選択されるようになることである。
祈りが、今、差し出すことができるものは、あなたが以前に求めたもののすべてをはるかに凌駕するのだから、それ以下のもので満足するのは嘆かわしいことである。
あなたは祈る度に、新たな機会を選択してきたのである。
それなのにあなたは、往古の牢獄のすべてから即座に自分自身を解放できる機会が訪れたというときに、その機会を抑え込んで、再び牢獄に閉じ込めておきたいのだろうか。
自分の求め方を限定してはならない。
祈りは、神の平安をもたらすことができる。
崩れて塵に返るときまでしか存続しない狭い空間において、時間に縛られているどんなものが、これ以上のものをあなたに与えることができるだろう。