【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

祈りの歌 第二章 赦し 序 Ⅰ.自分を赦すこと

「結果」の世界に、赦しを持ち込むのではなく、「結果」の世界を見過ごすことが赦し。

 

他者に罪を見るとき、それは、わたしがそう決めたから。

 

それを「罪」と見ようと。

 

本当は何も起こっていない。

 

その「わからなさ」にゆだねる。

 

「無垢性」にまかせる。

 

「静けさ」にくつろぐ。

 

そうしているうちに、この世界は、本当になにも起こっていなかったんだと気づいていく。

 

対人関係で杞憂されたさまざまな出来事は祝福に変わる。

 

嘆きは終わっていく。

 

優しさに包まれている。

 

わたしはわたしという実相に赦され、癒され、くつろがれていく。

 

・・・

祈りの歌

第二章 赦し

 

序 

 

赦しは祈りに翼を与え、その飛翔を容易にし、その進歩を速やかにする。

赦しによる強力な支えがなければ、祈りの階梯の最下段より上に進もうとすることは無駄であり、そもそも上ろうとする試みさえもが無駄ということになるだろう。

赦しは、祈りの同盟者である。

また、あなたの救済のための計画においては、祈りの姉妹である。

両者が揃うことが必要であり、それがあなたを支え、足どりを安全に保ち、目的を確固として不変のものとする。

あなたが神に到達するまでの間、あなたと共にあるようにと神が定めた最大の助けを、よく見てみなさい。

これと共に幻想の終わりがくるのである。

赦しの姉妹である祈りの超時的な特質とは異なり、赦しには終わりがある。

上昇が完了したときには、赦しは必要なくなるからである。

だが今は、赦しには目的がある。

あなたがその目的を超えて進むことはできないが、その必要もない。

この目的を達成しなさい。

そうすれば、あなたは救われたことになる。

これを達成しなさい。

そうすれば、あなたは変容を遂げたことになる。

これを達成しなさい。

そうすれば、あなたは世界を救うだろう。

・・

 

Ⅰ.自分を赦すこと

 

天国からの贈り物で赦しほど誤解されてきたものはない。

実は、それは苦行となり果ててしまった。

赦しはそれが祝福するはずだった場で呪いとなり、恩寵と真似た残酷な紛いものとなり、神の聖なる平安の戯画化となっている。

だが、まだ祈りの諸階段を上り始めることを選択していない者たちは、赦しをそのように使うことしかできない。

赦しの優しさははじめのうちは曖昧である。

なぜなら、救済が理解されておらず、真に求められてもいないからである。

癒すはずだったものが、傷つけるために使われている。

赦しが望まれていないからである。

罪悪感が救済となっていまい、治療法のほうが、生命に代わる恐ろしい選択肢のように見えている。

 

したがって、赦しの真の目的よりも、また、赦しのゴール達成のための誠実な手段よりも「破壊するための赦し」のほうが、この世界の目的にはるかに適するものとなる。

「破壊するための赦し」は、自らが探し求め、見つけて「愛する」ことのできる罪や罪悪はどれ一つ、見逃さない。

それは誤りを大切にしているため、その視界には数々の間違いが大きく立ち現れ、増大し、膨れ上がっていく。

それは注意深くすべての邪悪はものごとを拾い出し、愛するものについては、疫病を避けるかのごとく目を向けず、危険や死のように憎むべきものと見ている。

「破滅するための赦し」そのものが死であり、それは自らが見る一切の中に死を見て、それを憎む。

こうして神の慈悲が、神が愛する聖なる神の子を破壊しようとするねじれた短剣となってしまったのである。

 

こうしたことを行っているあなたは自分自身を赦したいだろうか。

それならば、平安のうちに神へと戻ることを可能にする手段を、神があなたに与えたいということを学びなさい。

誤りを見てはならない。

それを実在のものとしてはならない。

その誤りの代わりにキリストの顔を選ぶことにより、愛あるものを選択し、罪を赦しなさい。

それ以外にどのようにして、祈りが神のもとへと戻っていくことができるだろう。

神はわが子を愛している。

神を記憶にとどめていながら、神の創造したものを憎むことなどできるだろうか。

もしあなたが神の愛する子を憎むなら、あなたは彼の父をも憎むことになる。

なぜなら、あなたは自分が神の子を見る通りに自分自身を見るのであり、あなたにとっての神は、あなたが自分自身を見る通りのものだからである。

 

祈りが常にあなた自身のためのものであるのと同様に、赦しもまた、常にあなた自身に与えられている。

他者を赦すということは不可能である。

なぜなら、あなたが彼の中に見ているのはあなたの罪のみだからである。

あなたはそれを自分の中ではなく、そこに見たいのである。

だからこそ、他者を赦すことは幻想なのである。

それでも、それはこの世界でただ一つの幸せな夢である。

あなたを死に導くことのない唯一の夢である。

他者の中においてのみ、あなたは自分自身を赦すことができる。

なぜなら、あなたが自分の罪を着せて彼を有罪と呼んだので、今では、あなたの無垢性を彼の中に見つけなければならなくなっているからである。

罪深き者以外に、赦される必要のある者などいない。

そしてあなたは、自分自身以外の誰かの中に罪を見ることができるなどと、決して思ってはならない。

 

こうしたことが、この世界の巨大な欺瞞であり、あなたは、自分自身を欺くことに長けた詐欺師である。

邪悪なのは常に他人であるように見え、その他人の罪の中で、傷ついている者はあなたである。

これが事実であったなら、どのようにして自由が可能になるというのだろう。

あなたはすべての者の奴隷ということになる。

なぜなら、相手が行うことが、あなたの運命や感情を決め、絶望か希望か、惨めさか喜びかを決めることになるからである。

彼が自由をあなたに与えない限り、あなたには自由がないことになる。

そして邪悪である彼には、彼自身の邪悪さしか与えることができないということになる。

あなたは彼の罪を見て自分の罪を見ないということはできない。

しかし、あなたは彼を解放して、自分自身も一緒に解放することができる。

 

真に差し出される赦しは、あなたが自由になれる唯一の希望を内包する道である。

世界という幻想があなたの家であるように見えている限り、他人たちは間違いを犯すし、あなたも同様である。

だが、神ご自身がすべての神の子に、彼らが見ていると思っているすべての幻想を癒す治療法をすでに与えている。

キリストの心眼があなたの目を使うことはないが、あなたは彼の目を通して見ることができ、彼のように見ることを学ぶことができる。

間違いというものは、すぐに消えてしまう微小な影であるから、キリストの顔をほんの一瞬だけ隠すように見えるものにすぎない。

すべての間違いの背後には、キリストの顔が今も変わらぬままにあり続ける。

彼の恒常性は、穏やかな静寂と完全なる平安の中にとどまっている。

彼は影というものを知らない。

彼の目は、誤りを見過ごしてあなたの内なるキリストを見る目である。

 

それならば、彼からの助けを求めなさい。

そして、彼の心眼がそこに見ている通りの赦しを学ぶ方法を、彼に尋ねなさい。

あなたが彼に与えるものを必要としている。

そして、あなたの救済は、このことを彼から学ぶことにかかっている。

「破壊するための赦し」があなたのもとにとどまっている間は、祈りが天国へと解き放たれることは不可能である。

神の慈悲は、あなたの神聖な心からこの萎びて毒された思考を取り去ろうとする。

キリストはあなたを赦した。

そして、彼の視界の中で、世界は彼自身と同じく神聖になる。

世界の中に悪を見ない者は、彼が見るのと同じように見るのである。

なぜなら、彼が赦したものは、罪を犯したことのないものであり、罪悪はもはや存在し得ないからでる。

救済の計画は完了した。

そして、正気が訪れたのである。

 

赦しは正気への呼びかけである。

というのも、キリストの顔を見ることができるときに罪を見ていようとする者など、狂人以外にはいないからである。

そしてこれが、あなたの行う選択である。

それはもっとも単純な選択だが、あなたにできる唯一の選択である。

キリストの愛を差し出すことにより神の子を死から救い出すようにと、神はあなたに呼びかけている。

これがあなたの必要としているものであり、神はその贈り物をあなたに差し出している。

神が与えようとしている通りに、あなたも与えなければならない。

そのようにして、祈りは無形性を回復し、あらゆる限界を超越して超時性の中へと戻っていく。

そこには、全被造物が神に向かってうたう絶えることなき歌の中へと、祈りが再び融合するのを引き止めるような、過去からのものは何もない。

 

しかし、この最終目標を達成するためには、学びの終わる地点に達するまで、あなたはまず学ばねばならない。

赦しは鍵であるが、その鍵だけが差し込めるように造られた鍵穴のなる扉を見失っているときに、誰がその鍵を使えるだろう。

だから私たちは区別する。

それにより、祈りが闇から光に解き放たれることが可能になる。

赦しの役割が逆転されなければならず、邪悪な用途や忌むべきゴールから清められなければならない。

「破壊するための赦し」は、その裏切りのすべてにおいて顕わにされ、それから、それを限りに永遠に、放棄されなければならない。

帰還のために神が定めた計画がついて達成されて学びが完了するためには、その痕跡も残されてはならない。

 

ここは、相対立する者でできている世界である。

そして、この世界があなたに対し実在性を維持している間は、あなたは毎瞬、相対立するもののどちらかを選択しなければならない。

しかしあなたは、選択できる選択肢を学ばねばならない。

さもなければ、あなたは自分の自由を達成することができない。

それならば、あなたにとって赦しとは厳密に何を意味しているのかを、あなた自身に対して明らかにしなさい。

そして、自分を自由にするために、赦しとはいかなるものであるべきかを学びなさい。

あなたの祈りのレベルはこのことにかかっている。

なぜなら、祈りはここで、混沌の世界を超えて平安へと上昇していく自由を持っているからである。