この世界に「解釈」を持ち込まなくていい。
自分でいろいろ決めていたんだなぁと。
これは罪で、これは大丈夫・・・・など。
わたしが、本当に知っていることなど何「あっただろうか?
何にもない。
何にもわからない。
わからない、を認めたら、ホッとした。
「解釈」から解放されることが「自由」をもたらしてくれる。
もう、なにも決めつける必要がない。
まずは、このシンプルすぎることへの抵抗を素直に感じ、休らうさまを見届けよう。
わからないはゆるし。
忘れたもゆるし。
優しい事実に抱きしめられる。
・・・
第二章 赦し
Ⅱ.破壊するための赦し
「破壊するための赦し」は形態の世界の武器であり、数多くの形で現れる。
そのすべてがすぐそれをわかるものではなく、そのいくつかは、慈愛のごとく見えるものの背後に注意深く隠蔽されている。
だが、それが纏っているかに見えるすべての形には、単一のゴールしかない。
それらの形が目的としているのは、分離することであり、神が同じものとして創造したものを異なるものにすることである。
この相違が明白に表れているいくつかの形態においては、仕組まれている通りの対比が見逃せないものとなっているだけではなく、実のところ、見逃せないように意図されている。
この範疇においては、まず最初に、「より善良な」者がもったいなくも腰を低めて、「卑劣な」者をその真の卑劣さから救い出してやるための数々の形態がある。
ここにおいて赦しは、恵みをたれる高貴な者といった態度の上に成り立っており、そうした態度はあまりにも愛からかけ離れているため、そこから傲慢さを除去することは不可能である。
誰が赦しながら軽蔑することなどできるだろう。
そして相手に向って彼が罪にまみれていると告げておきながら、彼を神の子と知覚することができる者がいるだろうか。
奴隷を作り出しておいて、自由とは何かを教えられる者がいるだろうか。
ここには融合ではなく、悲嘆があるのみである。
これは実際のところ慈悲ではない。
死である。
もう一つの形態は、もし理解されるなら、依然として最初のものと非常によく似ているが、それほど露骨な傲慢さには見えない。
他者を赦そうとする者が、自分のほうが善良だと主張することはしない。
その代わりに今や彼は、ここに罪深さを自分と共有している相手が居ると言う。
なぜなら、二人とも卑劣だったので、神の怒りによる天罰を受けるに値するからである。
これは謙虚な考えのように見え、実際に、罪深さと罪悪感のついての競争心を生み出すこともある。
これは神の被造物への愛ではなく、永遠なる神の贈り物である聖性でもない。
神の子が自分自身を咎めていながら、それでも神を思い出すことなどできるだろうか。
ここにおけるゴールは、神の愛するわが子を神から分離させ、彼を源から離しておくことである。
このゴールはまた、他人の手にかかって死ぬ殉教者の役割を求める者によっても希求されている。
ここにおいて、この目標がはっきりと見られなけれなならない。
なぜなら、これが残忍さではなく柔和さや慈愛としてまかり通ることがあるからである。
他人の悪意に対して寛容であり、沈黙と優しい微笑みだけをもって応じるというのは、親切なことではないだろうか。
見よ、他人がもたらす怒りや傷を、忍耐と、聖人のごとき気高さで耐え忍び、自分が感じている激しい苦痛を表に出さないあなたは、何と善良であることだろう。
「破壊するための赦し」は、しばしば、こうした覆いの後ろに身を隠す。
罪悪と、罪による惨害とを、無言で証明するものとして、苦しみと痛みの顔をちらつかせる。
こうしたものが敵どころか救済者となることのできる相手に対して、この種の赦しが差し出す証言である。
しかし、敵にされてしまった彼は、罪悪と、そのようにして彼に負わされた重度の譴責を、受け入れるしかない。
これが愛だろうか。
それともむしろ、罪悪感の苦痛からの救済を必要とする者に対する背信だろうか。
その目的は、罪悪の証人を愛から離しておくこと以外の何だろう。
「破壊するための赦し」はまた、駆け引きと妥協の形をとることもある。
「もしあなたが私の必要を満たしてくれるなら、私はあなたを赦そう。あなたの奴隷の中に、私の解放があるのだから」。
誰かに対してこう言うなら、あなたは奴隷である。
そして、あなたはさらなる駆け引きにおいて、自分の罪悪感を取り除こうとするが、それはあなたに望みを与えることはできず、より大きな苦痛と不幸を与えるだけである。
そうなると、赦しとは何と恐ろしいものになることだろう。
それが追求する結末は、なんと歪曲されていることだろう。
このような駆け引きをするあなた自身を哀れみなさい。
神は与えるのであって、返礼は求めない。
神が与える通りに与える以外に、与えるということはできない。
それ以外のすべては、紛いものである。
なぜなら、神の子と駆け引きとしようとしながら、彼の聖性について彼の父に感謝する者などいないからである。
あなたは兄弟に何を見せたいだろうか。
あなたは彼の罪悪感を強化して、それによって自分自身のそれをも強化したいだろうか。
赦しは、あなたの脱出のための手段である。
それを、さらなる隷属と苦痛のための手段にするとは、何と哀れなことだろう。
相対立するものでできているこの世界の中にも、神のゴールのための赦しを使い、神があなたに差し出している平安を見つけることのできる道がある。
それ以外の何を受け取ることもやめなさい。
さもなければ、あなたは自分の死を求めたのであり、自分の自己から分離することを祈ったのである。
キリストはすべての者の中に居るので、すべての者のために存在している。
赦しがあなたに見せるのは、キリストの顔である。
そしてあなたは、キリストの顔の中に自分の顔を見るのである。
赦しが纏う形で、怒りや咎めやあらゆる種類の比較から離れる方向へと導かない形はすべて、死である。
なぜなら、それが、そうした形がもつ目的が定めたものだからである。
それらに騙されてはならない。
その代わり、それらを無価値なものと見なして、それらが差し出している痛ましい者の中に置き去っていきなさい。
あなたは隷属状態の中にとどまることを望んではいない。
神を恐れることも望まない。
あなたは陽光を見たいと望み、罪から救われ、神の愛に抱かれて、地の面を照らす天からの光を見たいと望んでいる。
ここからなら、祈りは、あなたと共に解き放たれる。
あなたの翼は自由になり、祈りがあなたを引き上げ、神があなたを住まわせたいと望む家へと、あなたを連れ帰るだろう。