「わからない」
「理解し得ない」
「わかる必要がない」
その「信頼」の中に入る。
平安になんの条件も必要はない。
判断をやめて、しずかにすみやかに無条件の幸せのなかへと。
・・・
第二章 赦し
Ⅲ.救済のための赦し
「救済のための赦し」には一つの形があり、その一つがあるだけである。
それは無垢性の証拠を求めることはなく、いかなる種類の支払いも求めない。
議論することはなく、見過ごしたいと望んでいる誤りについて価値を見きわめようとはしない。
裏切りながら贈り物を差し出すことはなく、死を要求しながら自由を約束することもない。
神があなたを欺くだろうか。
神はただ、信頼と、自由になる方法を学ぼうとする意欲とを求めているだけである。
神は、求める者や、神の意志を理解しようとする者なら誰にでも、神の教師を与える。
神がいかに喜んで与えようとしているかは、あなたの理解やあなたが容易に把握できる範囲をはるかに超えている。
だが、神はあなたが神に戻る道を学ぶことを意志した。
そして、神が意志しているのだから、それは確実である。
神の子供よ、神の贈り物は、あなた自身の計画によってではなく神聖なる神の意志によって、あなたのものである。
赦しとは何か、そして、どのようにして神が意志する通りに赦しを与えるのかを、神の声があなたに教えるだろう。
だから、今はまだあなたを超越しているものを、理解しようとするのはやめなさい。
そうではなく、それを、あなたを引き上げるための一つの方法とならしめ、あなたがキリストの目を自分の視覚とすることを選ぶ地点まで引き上げてもらいなさい。
その他のすべては放棄しなさい。
なぜなら、それ以外には何もないからである。
誰かが何らかの形で助けを求めるとき、あなたに代わって答える存在がキリストである。
あなたがすべき唯一のことは、一歩退いて、邪魔しないことだけである。
「救済のための赦し」は、キリストの任務であり、あなたに代わって応答するのは彼である。
キリストによる赦しが表れる形がどのようなものとなるべきかを、自分で定めてはならない。
あなたがついに父の家へと急ぐために立ち上がるとき、一つひとつの呼びかけがあなたにとって助けとなるようにする方法を、彼は知っている。
今、彼はあなたの足取りを確かにし、あなた自身の誠実さによってではなく、彼自身の誠実さによって、そうするのである。
あなたがどのようにして赦すかについては、彼に責任をもってもらいなさい。
そうすれば、一つひとつの状況が、天国と平安へと向かうさらなる一歩となるだろう。
あなたは幽閉されていることに倦み疲れてはいないだろうか。
神はこの嘆かわしい道程をあなたのために選びはしなかった。
あなたが選んだものは、依然として取り消しが可能である。祈りは慈悲深く、神は公平だからである。
神の正義には理解できる正義であるが、あなたにはまだ理解できない。
それでも神は、あなやが神から学ぶための手段をあなたに与える。
そして、咎めは実在しておらず、その邪悪な名において幻想を作り出しているということを、あなたがついに知ることができるようにする。
とはいえ、夢が纏っているかに見える形態は問題ではない。
幻想は真実ではない。
神の意志が真理であり、あなたは意志と目的において神とひとつである。
ここにおいて、すべての夢が終わる。
「あなたの聖なる子である彼のために、私は何をすればようのでしょうか」ーこれが、助けを必要とされ、赦しが求められているときにあなたが尋ねるべき唯一のことである。
赦しがどのような形で求められているかについては、あなたが判断する必要はない。
そして、赦しが神の子を救いにくる形態を、あなたが自分で定めることのないようにしなさい。
彼の中に居るキリストの光が、彼の解放であり、彼からの呼びかけに応えるのはこの光である。
あなたがすべきことだとキリストが決めている通りに、彼を赦しなさい。
そして、あなたがキリストを代弁して語りなさい。
彼は必要とされているものを知っている。
すなわち質問と答えを知っている。
彼は、あなたが理解できて使うこともできる言葉で、まさに何をすべきかを語ってくれるだろう。
彼の機能をあなた自身のそれと混同してはならない。
彼が応えである。
あなたはそれを聞く者である。
そして彼は何について、あなたに語るだろうか。
救済について、そして平安という贈り物についてである。
罪と罪悪感と死の終わりについてである。
そしてまた、彼の中で赦しがもつ役割についてである。
あなたはただ耳を澄ましなさい。
なぜなら、キリストの名に呼びかけ、自分の赦しをキリストの手にゆだねる者なら誰にでも、彼の語ることが聞こえるからである。
赦しは、彼が教えるべきものとして彼に与えられた。
それは、赦しを破壊から救うため、そして、分離と罪と死の手段が再び神の聖なる贈り物となるようにするためであった。
祈りとは、真の赦しが彼の永遠なる見守りと愛から生じるままにされたときに、自由になって救うことができるようになる神ご自身の右手である。
耳を傾け、学びなさい。
そして裁いてはならない。
あなたが自分のすべきことを聞くために頼るのは、神である。
神の答えは夜明けのごとく明らかであり、神の赦しも、あなたが赦しだと思っているものとは違っている。
それでも神は知っている。
そしてそれで充分である。
赦しには教師がおり、その教師は何ごとにおいても失敗することがない。
このことの中で、しばし安らぎなさい。
赦しを判断しようとしたり、地上的な枠組みに入れようとしてはならない。
それをキリストのもとまで上昇させなさい。
キリストはそれを神への贈り物として歓迎するだろう。
神は慰めもなくあなたを放っておくことはしない。
また、神ご自身の名においてあなたに答えるために、神の天使たちを遣わすことに失敗することもない。
神は扉の傍らに立っており、赦しはその扉を開く唯一の鍵である。
あなたの代わりに神に使ってもらえるように、それを神に渡しなさい。
そうすれば、音もなく扉が開いてキリストの輝く顔が顕わになるのを、あなたは見るだろう。
その扉の向こうに居るあなたの兄弟を眺めなさい。
それが、神が創造したままの神の子である。