「死」が「罪」とセットになっている強い強い信。
「死」を罰ゲームの最終地点に置くことで、ずっと罰ゲームの夢を見続けている。
「死」を忌むものと見ることで、この世界の夢から逃れないようにしている。
この不毛で楽しくないゲームを下りよう。
「死」はわたしたちが信じているようなものではない。
その信念を全体にゆだねよう。
そして、そこから感じる感覚に素直でいよう。
永遠を感じよう。
・・・
祈りの歌
第三章 癒し
Ⅱ.偽りの癒し 対 真の癒し
偽りの癒しは、単に、一つの幻想を「より良い」幻想に取り替えるという不毛な交換をするだけである。
病気の夢を、健康の夢に取り替えるだけである。
こうしたことは、祈りの低次の諸形態において起こることがあり、そうした形態は、善意はあってもまだ完全に理解されていない赦しと組み合わさっている。
偽りの癒しのみが、恐れに屈することがあり得るため、病気の再発が可能になる。
偽りの癒しでも、もちろん痛みと病気の形を取り除くことはできる。
しかし、その原因が存続しているため、結果が無くなることはない。
原因は依然として、「死にたい、キリストを打ち負かしたい」という願望である。
そして、この願望があれば、死は確実である。
なぜなら、祈りは叶うものだからである。
だが、それとは別の起源をもつ種類の、死のように見えるものがある。
それは、傷つける想念や宇宙に対する荒れ狂う怒りのゆえに生じるものではない。
それは単に、肉体の機能の有用性に終わりがきたことを示すだけのものである。
それゆえに、人が着古した衣服を脱ぎ捨てるように、肉体は一つの選択として廃棄される。
これが、死の然るべき姿である。
それは静かな選択であり、神へと向う道すがら、肉体が神の子を助けるために優しく使われてきたがゆえに、喜んで、安らかに下される選択である。
そのとき私たちは、肉体に対し、それが提供してくれた働きのすべてについて感謝する。
しかし私たちはまた、制限だらけの世界を歩む必要がなくなったことにも感謝し、隠された形のキリストや、せいぜい一瞬の麗しい閃光の中にしか鮮明に見ることができないキリストに到達しようとする必要がなくなったことにも、感謝する。
今や、私たちには、視覚をさえぎるものはなく、私たちが再び目を向けるようになった光の中に、キリストを見ることができる。
それを私たちは死と呼んでいるが、実はそれは自由そのものである。
それは、嫌がる肉体に苦痛と共に押しつけられるかに見える形で訪れるのではなく、解放をやさしく迎え入れるものとして訪れる。
真の癒しが起こっていた場合には、このような形で死が訪れることが可能である。
そこでは死は、喜んで為されて喜んで終えられた労働からしばし休息する時がきたときに訪れるものである。
今や、私たちは平安のうちに、より自由な空気と、より温和な風土のあるところへ行くのであり、そこでは、私たちが与えた贈り物が私たちのために保存されていたということを見るのは難しくない。
なぜなら、キリストは今、以前よりもはっきり見えるからである。
彼の心眼は、私たちの中で以前よりもしっかりと維持されており。彼の声、すなわち神の声は、以前よりも確実に、私たち自身のものとなっている。
より高次の祈りへと向かうこの柔和な移行、すなわちこの地上のやり方を優しく赦すことへの移行は、感謝の中でのみ受け取ることができる。
だが、それにはまず最初に、真の癒しがすでに訪れて心を祝福し、心が夢を見て世界の上に置いていた罪を、優しく赦していたはずである。
今や、心の見ていた夢の数々が、静かな休息の中で一掃される。
今や、その心による赦しが世界を癒すために訪れており、旅は終わり、レッスンが学ばれたので、その心には安らかに去る用意ができている。
これは、この世界によれば、死ではない。
なぜなら、世界の怯えた目には死は残酷なものであり、罪に対する処罰という形で表れるからである。
そうだとすれば、それがどうして祝福であり得るだろう。
そして、それが恐れられなければならないときに、どうしてそれを歓迎することなどできるだろう。
単なる高次の祈りと柔和な正義の執行へと門を開くだけのものについて、このような見方をしているなら、いったいどんな癒しが起こったと言えるだろう。
死は報奨であって、処罰ではない。
しかし、このような見解は、世界には思いもつかないような癒しによって、培われなければならない。
部分的な癒しというものはない。
幻想を幻想へと変化されるだけのものは、何もしていない。
虚偽であるものが部分的に真実であることはできない。
もしあなたが癒されているのであれば、あなたの癒しは完全である。
赦しのみが、あなたが与え、受け取る唯一の贈り物である。
偽りの癒しは肉体の治療の上に成り立っている。
それゆえに、それは依然として病の原因を変えずにおくので、病の勝利であるかに見える残酷な死がもたらされるまでの間、いつでも病は再発可能である。
死はしばらくの間は遠ざけておけるし、それが神の子に復讐しようと待ち構えている間、つかの間の休止期間がある場合もある。
だが、死を克服することは、死に対する信のすべてが放棄され、邪悪な夢の代わりに神による代替に信が置かれるようになるまでは不可能である。
そして、その代替とは、そこを暗く慰めのないものにしておくための罪のベールが存在しない世界である。
そのときついに、天国の門は開かれ、神の子は自由に、彼を歓迎しようと待っている家の中へと入っていく。
それは、時間が生じる以前から準備が整っており、今もただ彼を待っている家である。